第34章 無題
淡々と拒否だけを続けていた杏寿郎の声色に感情が灯る。
蛍が関与する時にだけ見せるその目が、声が、威圧こそが彼のありのままの姿だ。
それこそ見たかった姿だと、鋭い犬歯を覗かせて薄らと猗窩座は口を開き嗤った。
「俺にも俺の都合がある。彩千代蛍を殺す気は到底ないが、無惨様に献上しなければならない。故に手を出さないという選択肢は取れないな」
「献上」という言葉に、杏寿郎の唇の端が強く結ばれる。
「杏寿郎が鬼になれば、その女と共に来ることができるぞ。悪い提案ではないだろう?」
「……」
「さぁ、手を取れ。鬼になれば、その体も瞬く間に元に戻る。お前が抱いているその者に、そんな顔をさせなくても済む」
腕に抱いている蛍がどんな顔をしているのか。猗窩座に告げられたからとて、今更確認も何も必要はない。
己の体を傷付けることは、蛍の心も傷付けることだということは十分理解している。
逆の立場であれば、自分なら理性を抑えられるかもわからないものだ。
「き…きょ、じゅ」
「蛍」
息も絶え絶えな声が耳に届く。
身を捩ろうとする気配を、名を呼ぶことで制した。
「動けば怪我が痛む。安静にしていてくれ」
「そん、なこと…ッ杏寿郎に比べたらッ」
「そうだ。俺はこうして両足を着いて立つことができる。呼吸も使える。刀も握れる」
「ッ」
尚も身を乗り出そうとする蛍を抱く腕を、自らに寄せる。
四肢が揺れるだけで激痛が走るのだ。歯を食い縛り言葉を呑み込む蛍に、ようやく杏寿郎の双眸が向いた。
血を抜いたかのように蒼白な顔。
じとりと肌を覆う汗も、過呼吸のように乱れた息も、常に体中に走る激痛が引き起こしているものだ。
「鬼も人も関係ない。今、重症なのは俺より蛍の体だ」
重なる緋色の縦に割れた鬼の目は、今まで数多の数程見て来た悪鬼とは程遠い。
澱み、移ろい、それでも必死に訴えるように杏寿郎へと向けられている。
色味や気配が鬼のそれであっても、誰よりも人間らしい蛍の瞳だ。