第34章 無題
ひゅおりと素早く空(くう)を切る拳が呻る。
猗窩座の狙いは確かに蛍の顎だった。
骨を割る為の拳ではなく、骨を外させる為だけの拳は杏寿郎に放ったものとは威力が段違いに劣る。
故に地面を抉ることなく空だけを切った。
「──!」
忽然と蛍の姿を消した空間だけを。
「あ"…ッ」
目の前の蛍は何処へ消えたのか。
探さずともすぐに見つけられたのは、痛みに耐える呻き声を耳にしたからだ。
ゆっくりと振り返る猗窩座の視界に、揺らぐ焔色の髪が映る。
「骨は外れたが出血はしていない。安静にしていればすぐに治る」
「き…杏」
「無理に喋らなくていい。君は治癒に専念しろ」
ぐったりとしたまま動けない蛍を抱き上げ、猗窩座の拳を回避していたのは杏寿郎だった。
まるで五体満足時に一気に距離を詰めて頸を狩ろうとしてきた斬撃の如く。
洗練さを取り戻した杏寿郎の身のこなしは、あの時よりも磨き上がっているように感じた。
体や顔は至るところを血に染めているというのに、貫くような双眸は猗窩座だけを睨み付けている。
限界まで見開いた金輪を持つ眼光は、暗闇の中で得物を狙う獣のようにぎらぎらと殺気立っている。
肌に威圧を感じるその双眸は、どんなに負傷しようともこの場の誰よりも死んでいない。
無表情だった猗窩座の口角が、嬉々としてつり上がった。
「そうだ。骨の位置を多少ずらしただけだ。ただの人間であっても元通りに治る怪我。鬼である彩千代蛍なら造作もない」
ゆらりと両腕を広げて、鋭い杏寿郎の視線と交える。
言葉通りに蛍の骨の間接を綺麗に外しただけだ。
それでも真実を語ることが杏寿郎を更に煽ることを知っていた。
「そこまで必死になることもないだろう?」
「ふざけるな」
柔らかな口調で投げかければ、間を置かずに跳ね返される。
「鬼であろうがなかろうが関係ない。彼女を痛め付けることは何人たりとも許さん」