第34章 無題
猗窩座の口から赤い液体が糸を引き落ちる。
ぺっと唾液混じりの血を吐き、ぐるりと頸を捻り振り返った。
「悪くない蹴りだ」
自分に血を吐かせるとは。
振り返り見た蛍の顔は、先程とは別人のようだった。
きりきりと縦に割れた緋色の瞳はより赤く、割れたガラスのように罅を刻み鬼化を体現している。
恐らく得意手であろう影の金魚は、潰した為に使えはしまい。
それでも身一つで殴り込んで来るところは素直に感心した。
猗窩座は好戦的な鬼ではあるが、強者には一目置いている。
故に鬼の始祖である無惨のことを尊敬も畏怖もしていなかったが、上に立つ者として従うべきだと直感していた。
この彩千代蛍という鬼もそうだ。
力は到底上弦には及ばないが、目を止めるだけの"何か"はある。
無惨や童磨がその名を呼ぶだけのものは。
(だが、)
蹴りを入れてきた蛍の足を鷲掴む。
「っ!」
それよりも速く、蛍は身を翻し距離を取った。
空中でそんな妙技ができるのは、恐らく体中に纏っている影のお陰だろう。
「俺は今、杏寿郎と話していると言ったはずだ」
「!?」
距離を取ったはずの蛍の目前に、猗窩座の顔が迫る。
【上弦】【参】と刻まれた目は、冷たく蛍を見据えていた。
「二度目はないぞ」
逃げ切ることはできない。
杏寿郎の速さにさえ、嬉々として相手をしていた猗窩座だ。
大きく振り被る猗窩座の右腕が、蛍の目にスローに映る。
自分がやられる側だと意識の奥底で理解でもしているのか。
「ッ」
だからなんだと、牙を剥いた歯を食い縛った。
回避できないなら打つだけだ。
蛍の体を纏っていた影が牙を剥く。
四方八方から猗窩座の体を包むように、網目状に交差しながら襲い掛かった。
ドドドドドッ!!
猗窩座の拳の連打とは違い、無数の弾を打ち込むような影の乱射が弾ける。
振り被る姿勢のまま、猗窩座は直接体に無数の影の弾丸を受けた。