第34章 無題
「杏寿郎。死ぬな」
忍び寄るように近付いてくる。
杏寿郎の背後にぞわりと纏わり付こうとしている"それ"を、猗窩座は静かに口にした。
「生身を削る思いで戦ったとしても、全て無駄なんだよ杏寿郎。お前が俺に喰らわせた素晴らしい斬撃も、既に完治してしまった」
息を乱す杏寿郎と相反し、猗窩座の息は一つも乱れていない。
激しい戦闘を繰り返し体は疲労しても、同時に回復していくのだ。
胸に大きく斜めに走る深い刀傷。
それも動画を逆再生するかのように、ぴたりと細胞を繋ぎ合わせ、骨を繋ぎ、血を止める。
そこには凛々しい肉体のみが残り、怪我を負っていたはずの気配さえ残していない。
「だがお前はどうだ。潰れた左目。砕けたあばら骨。傷付いた内臓」
己が壊した体だ。
手に取るように杏寿郎の肉体の散々たる様は、猗窩座には理解できていた。
「もう取り返しがつかない」
ぴくりと、蛍の胸に爪を突き立てていた手が震える。
予感はしていた。
自分が鬼だから、尚の事わかるのだ。
人間の命は一度きり。
切断された手足が生えることも、大量に出血した血を身一つで補うこともできない。
肉体も、そこに宿る機能も。失くしてしまえば、例え生き永らえても永遠に消えてしまうのだ。
「…ッ」
どくりと、強く押さえ付けた胸の下で心臓が息を呑む。
「鬼であれば瞬きする間に治る。そんなもの鬼ならば掠り傷だ」
瞬きするような刹那の出来事だった。
呼吸を一つ、繋ぐだけのような。
その間に杏寿郎は内臓を、眼球を、大きな体の欠損をしたのだ。
鬼ならば一瞬で手に入れられるものを、一瞬で人間は失くしてしまう。
だからこそ守らねばと思うのだ。
「…ッ」
代えなど利かない。
世界中でたった一つの、存在なのだから。