第8章 むすんで ひらいて✔
これ以上踏み出すのは躊躇してしまった。
精神的なものじゃなく、物理的に。
すぐ目の前には、淡く仄かに光を発するような藤の花が咲き乱れていたからだ。
人間の頃は綺麗だな、くらいにしか感じていなかった花だ。
鬼に成ってからは言い様のない怖さを感じるようになった。
上手くは説明できない。
でもそれは日光と似ていた。
触れてしまったら嫌なことが起こる。
直感的に、そんな危機感をひしひしと体の芯が伝えてくるから。
そもそもなんでこの藤の花は年中咲いているのか。
太陽も当たらない地下で、毎日水をあげてる訳でもないのに。
そんな不気味さはあるけど、だからと牙を向いてくる訳じゃない。
ひっそりと静かに咲いているだけ。
日光は当たれば鬼は消滅してしまうと教わったけど、藤の花については何も教わらなかった。
義勇さんに訊いておけばよかったな…。
「…匂いくらいなら平気かな」
日光のように肌に当たる訳じゃないから。
なんとなく学ぶべきことだと恐る恐る顔を近付けてみる。
ふんわりと香る藤の花。
すぅ、とその匂いを嗅いでみると──
「っゲホ!」
咽た。
「ゴホッん、げほっ」
いや、これは、香りに当てられたというより、花粉に咽たという方が正しいのかな。
急に鼻孔を塞ぐ強い花粉に、くらりと頭が揺れる。
思わず傾いた体に、目の前の柵を掴んで倒れるのを阻止した。
「…あ。」
柔らかな薄い絹のような感触。
柵を掴んだ手が触れているのは、淡い光を纏う藤の花。
さ、触ってしまった…。
思わず目の前の藤の花に埋もれた右手を凝視する。
柔らかな花弁に悪しき気配なんて感じない。
柔らかな色に、柔らかな感触に、柔らかな匂い。
普通であれば心地良ささえ感じそうなものだ。
普通であれば。
でも私は普通じゃなかったんだ。
「ッ!?」
急に痛みが走る。
反射的に引っ込めた右手を見れば、それは──
「え…」
どろりと形を保てない程に、崩れていた。