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いろはに鬼と ちりぬるを【鬼滅の刃】

第34章 無題



「ここで殺すには惜しい。まだお前は肉体の全盛期ではない!」


 長期の攻防戦で、必ず最初に限界がくるのは鬼ではなく人間である。
 それは杏寿郎も例外ではない。

 今まで防御できていた剣裁きに一瞬"陰り"が入る。
 その一瞬を猗窩座は見逃さなかった。


 ゴリュ、と骨をなぶるような嫌な音がした。


「ぐ…ッ!?」


 杏寿郎の脇腹にめり込む猗窩座の拳。
 今まで全て真正面から受けることは避けられていたというのに。激しさを衰えさせない拳の連打は、ついに杏寿郎の体を捕らえていた。

 かはりと杏寿郎の口から嘔吐に似た唾液が散る。


「ッ…!」


 その姿を目にした蛍は、ぞわりと肌を粟立たせた。

 激しい鍛錬を共に積んできたからこそわかる。
 猗窩座の深く重い一打は、杏寿郎のあばらの骨を砕いただろう。
 夜目の利く蛍の目は、黒い隊服にじわりと滲む何かを捉えていた。


(朔…!)


 迷いはなかった。

 つけ入る隙のない激しい二人の攻防戦の中、どうやって杏寿郎の助太刀に入るか。そこに答えを見つけるより早く、蛍の体は動いていた。
 叩き付けるようにして掌を地面に押し当てる。

 もし猗窩座の拳がめり込んだのがあばらではなく頭蓋であったなら、杏寿郎は即死していた。
 今まで数多の悪鬼戦を乗り越えてきたが、ここまで背筋を冷やした戦いはない。

 暗い闇の中でも更に真っ黒に塗り潰された影が、水面下でうごめく魚のように地面を走る。
 それは瞬く間に猗窩座の足元に迫った。


「一年後、二年後には──」


 嬉々として杏寿郎に再び拳を振るっていた猗窩座の声が、不意に途切れた。
 がくんと下がる視界に、足元の確かな地の感触が消える。
 見れば、沼のような黒い影が己の足首を飲み込んでいた。


「〝昇り炎天〟!!」


 足元を見る猗窩座の動きが止まった、その一瞬。
 振るう杏寿郎の刃が、正確に頸を狙い斬り裂いた。

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