第34章 無題
下から突き上げた拳が、杏寿郎の顔面を狙う。
頸を捻る動作一つでぎりぎり避けた杏寿郎の髪が、ぱっと数十本、空気に散った。
拳が掠っただけで髪を切り裂くような威力だ。
それが急所に当たればどうなるか想像も難くない。
(どうしよう…一人の鬼に、あんなに手を焼いてる杏寿郎は見たことない)
奥歯を噛み締め、固唾を呑んで見守る蛍がいた。
今まではどんな悪鬼が現れようとも、杏寿郎の攻撃は必ず相手を追い詰めていた。
あの童磨さえも、本体ではなかったが最後は杏寿郎と実弥の連撃により倒れていたのだ。
「まだわからないか! 攻撃を続けることは死を選ぶことだということが!」
しかし猗窩座には窮地に追いやられている様子が微塵もない。
いくら腕を斬り落とされようとも、肌を貫かれようとも、一心に杏寿郎を説得し続けている。
「杏寿郎!!」
「っ…うおおお!!」
寧ろ追い詰められているのは杏寿郎のように見えた。
ギンッ!
相手は拳だというのに、盾にする刀身にぶつかる激しい金属のような打撃音。
隙なく連打される猗窩座のその拳が、今度は杏寿郎の額すれすれを通った。
──ザシュッ
掠っただけで髪を切り払っていた拳だ。
その鋼のような打撃は、杏寿郎の額を僅かに掠っていた。
「ぁ…!」
ぱっと散る赤い血飛沫。
左の額から大きな出血を見せる杏寿郎に、蛍の喉が震える。
童磨戦の時は、傍らに同じ実力を持つ風柱がいた。
だが今此処にいるのは、守られる側にしかならない炭治郎達だけだ。
(どうにかしなきゃ…っ)
相手は童磨の次に並ぶ実力の持ち主。
その相手に、杏寿郎一人だけで太刀打ちできるのか。
あの時はテンジに記憶を奪われ、また片足を失い実力を発揮できなかった。
(早く、どうにかッ)
今は違う。
朔ノ夜という新たな能力を手に入れ、童磨戦よりも力をつけた。
今なら、杏寿郎の確かな加勢ができるはず。