第34章 無題
「っは…」
ざくりと地面に突き刺さる刃。
それを支えに体を起こす杏寿郎が、土煙から現れる。
今まで一度も切れていなかった呼吸が、初めて乱れていた。
それでも鋭さの衰えない眼光は、森の奥からゆっくりと現れる鬼だけを睨み付けている。
「鬼になれ、杏寿郎」
はぁ、と憂いにも似た溜息をつく。
鋭い牙を見せて笑う猗窩座は、まるで旧友に語り掛けるように杏寿郎を誘った。
「そして俺とどこまでも戦い、高め合おう。その資格がお前にはある」
底の見えない強さを持つ鬼が、お前は特別だと言う。
その実力を肌で感じながらも、杏寿郎は乱れた呼吸を整えた。
「断る」
鬼はすぐに嘘をつく。
他者を騙し、見限り、嘲笑い、甚振る。
それが悪鬼という生き物だ。
だが目の前の猗窩座からは、そんな気配は感じられない。
杏寿郎を甚振る為に拳を振るうのではなく、純粋に強さを求め同じ高みに上がれる者を見つけて喜んでいるだけだ。
「もう一度言うが、俺は君が嫌いだ」
今まで出会った悪鬼とは違う。
それでもそれは頸を縦に振るう理由にはならない。
結局は猗窩座も、人間は弱い生き物だと"下"に見て生きている。
強いか強くないか。力だけに拘り、その力を持って他者の命を天秤に賭けるのだ。
そんな神の所業のようなことを、さも自分が真っ当であるかのような顔をして。
「俺は鬼にはならない!」
型が違うだけで、杏寿郎の目から見ればそれは今まで出会った悪鬼と何も変わらなかった。
己の私利私欲で人間を選別し、生死を選び、拳を振るう猗窩座もまた斬首すべき存在。
(炎の呼吸、参ノ型)
猗窩座を強く否定する声は、既に乱れを消していた。
整えた呼吸をすぐさま炎へと切り替える。
線路の傾斜に足跡が残る程に、力強い蹴りで跳んだ杏寿郎は真正面から斬りかかった。
この鬼は真っ向から向かう敵から逃げはしない。
短い時間だが、命のやり取りをしたからこそわかる。
〝気炎万象〟
真上から振り落ちる炎の塊。
猗窩座の体も優に包む程の巨大な炎の技に、牙を剥き出す口が笑う。