第34章 無題
一瞬でさえ目を離す訳にはいかない。
ぴりぴりと緊迫した空気を纏う杏寿郎を、男は【参】の文字が刻まれた瞳を細めて見つめた。
「だが生憎と俺は興味がない」
不意に、腰を屈めて担いでいた蛍の体を下ろす。
「ぇ…」
乱暴に投げ捨てるでもない。
怪我に負担をかけないように下ろされた事実に、蛍は困惑気味に男を見上げた。
何処かへ連れ去る気ではなかったのだろうか。
「そこを動くな。お前の用事は後回しだ」
そんな蛍の思考を読み取るように、男が釘を刺す。
座り込んだままの蛍を静かに威圧してから、杏寿郎へと視線を移した。
「これでいいか」
ゆるりと両腕を広げて、己の姿勢を示すようにして語りかける。
まるで杏寿郎の意見に従うように、蛍を解放したかのように見えた。
「蛍、こちらへ」
「動くな。それは聞き入れられない」
一見許しを得たように思えたが、杏寿郎の呼びかけは重ねるようにしてぴしゃりと遮る。
「この女には用がある。最低限、ここまでだ。お前も逃げ出す素振りを見せると、今度こそあいつの頭を潰すぞ」
男が指差したのは、杏寿郎の傍らで身動きが取れない状態の炭治郎だった。
自由の身にはなれたが、未だ拘束されていることと変わりない。
男の静かな脅しに、蛍は緊張からこくりと喉を鳴らした。
「…何故手負いの者から狙うのか理解できない」
蛍を呼び戻すことは不可能だと悟った杏寿郎が、男自身に声をかける。
どうあっても、この男自身を止める他に道はないようだ。
「話の邪魔になるかと思った。俺とお前の」
「だから蛍の身も離したのか」
「そうだ」
まるで別人を見ているようだった。
あんなにも蛍や若菜には興味を持たなかった男が、杏寿郎となるとまるで態度が違う。
口元には笑みを称え、話をしたいと歩み寄りを見せる男の姿を、蛍はまじまじと後方から見上げた。