第34章 無題
「いい刀だ」
拳から綺麗に縦に割れた男の腕は、吸い寄せられるようにぴたりと断面を合わせると、たちまちに傷跡を消した。
肌に付着したままの血を舐め取り笑う。
乾いた緊迫の空気とは相反し、男には余裕が見て取れた。
「彼女を離せ」
対して杏寿郎の表情には、先程まで浮かべていた笑みが一切消えていた。
見開く双眸は、男の行動に警戒しながら担がれた蛍を見る。
「この女は鬼だ。人間ではない」
「知っている。関係ない、彼女を離せ」
端的に返す杏寿郎の声色は揺るがない。
ふむ、と一瞬考える素振りを見せた男は、何かに納得したように頷いた。
「鬼狩りに属する鬼というのはどうやら本当らしいな。彩千代蛍」
先程まで露にも興味のなかった目を、担いだ蛍に移す。
杏寿郎の態度一つで十分だった。
この場で誰より実力があるのはあの炎のような姿をした男だ。
その男が、警戒を強めながら第一に鬼である蛍の解放を望んでいる。
ただ従わせているだけの者なら、ここまでしないだろう。
それだけ蛍の存在が男にとって必要なものだからだ。
「鬼狩りに捕えられた鬼なら見たことがあるが、属する鬼は初めてだ。無惨様が一目置くのも頷ける」
「──っ」
無惨。
その名を耳にした蛍、杏寿郎二人の体に緊張が走る。
上弦の弐である童磨に目をつけられたのだ。
やはり鬼の始祖である鬼舞辻無惨の目にも止まってしまっていたのか。
(見た目や纏う臭いからは真新しい血の痕跡がない。あのおさげの少女を殺したとは考えられ難いが…まずい状況だ)
蛍が上手く隠したのか、おさげ少女自身が逃げ出したのか。杏寿郎には詳細を図り兼ねたが、今何より危惧すべきは目の前の状況だ。
上弦の参の実力を持つ鬼が、無惨の命により蛍を捕えている。
手負いの隊士や乗客が大勢いるこの環境下では、少しでも隙を見せれば瞬く間に連れ去られてしまうだろう。