第33章 うつつ夢列車
壁は何処か。
窓は何処か。
扉は何処か。
立っている床の感覚も、眠っていた乗客達の姿も、入り込んできたはずの入口も、何もない。
ドス黒く塗り潰されたかのような空間の中に、突如放り込まれた。
(これは…)
それでも恐怖はなかった。
それが誰よりも優しい闇であることを知っていたからだ。
「そこにいるのか」
何もない空間に向けて呼びかける。
ようやく捜していた人物に辿り着いた。
自然と口角が緩み、構えていた日輪刀の切っ先を僅かに下ろす。
「蛍」
其処が戦場であることを忘れさせるような、あたたかい響きだった。
──ザァッ
杏寿郎の呼びかけに呼応するかのように、覆い尽くしていた闇が消え去る。
塵のように散った闇は、きらきらと光の反射で煌めく。
まるで朔ノ夜の鱗のように。
「──…ぇ」
その中心に、彼女は立っていた。
汗を滲ませ、呼吸を乱し、険しい表情を浮かべ、今し方まで戦場と向き合っていたことがわかる。
振り返ったその目は、杏寿郎を映し出すと驚きに満ちた。
「きょ…」
ひゅ、と息を呑む。
「杏寿郎…!」
鋭く縦に割れた瞳孔が緩み、弾けるように駆け出した。
その姿を迎え入れるように、杏寿郎も腕を広げていた。
「目が覚めたの!? よかっむぎゅ」
駆け付けた蛍は、その胸に飛び込むことなく笑顔を見せる。
しかし背中に回された片腕が、全て聞き終える前に強く抱きしめていた。
「蛍」
「ん…っうん」
「蛍だ」
「? うん」
暖かい日差しの中で見た、あの眩しい笑顔はない。
それでも強い抱擁をものともしない、しなやかなこの体が。
一見すると血のようにも見える、鮮やかな緋色の瞳が。
人々を守る為に生み出す、彼女だけの優しい闇が。
全てが自分が望んだ蛍であることを証明してくれている。
噛み締めるように何度も名を呼ぶ杏寿郎に、強い抱擁の中から顔を出しながら蛍は不思議そうに目を瞬いた。