第33章 うつつ夢列車
「…ほたる」
「──!」
その名を呼ぶのは、彼女ただ一人だけ。
目の前の存在が蛍ではないと認識してから一度も呼ばなかった名だ。
涙を目に溜めた顔が、弾けるように上がり見つめる。
鬼に同情などはしない。
するとあらば無駄に苦しませず頸を絶つことが、杏寿郎にはせめてもの情けのようなものだった。
目の前の彼女にも一切の同情はしない。
ただ自身の想いが造り上げてしまったものならば、自身の手で終わらせないといけないと悟った。
「俺は此処を出ていく。何処が出口かわからないが、恐らく朔ノ夜が導いてくれる。ただし陽の下を歩むぞ。それでもいいなら、ついて来るか」
今の蛍は、紫外線対策をした特殊な着物に身を包んではいない。
朔ノ夜のような強力な術を使うこともできない。
体を幼児化させて羽織で包んだとしても、完全には防げない可能性が高い。
陽の下を歩む。
それは鬼にとっては灼熱の地獄を行くようなものだ。
「俺の知る蛍は──」
「っ」
杏寿郎の言葉は皆まで届かなかった。
唇を噛んだ蛍が、飛び込むように杏寿郎の胸に抱き付いたからだ。
「行く…! 杏寿郎と一緒なら、何処へでも行く」
その言動に迷いはない。
「…わかった。体を縮められるか」
抱き付いたまま、ふるふると頸を横に振る蛍の顔は見えない。
やはりそうかと、杏寿郎は冷静に頭を回した。
血鬼術を使えない時点で、この蛍は不完全な鬼だ。
恐らく外側だけ記憶を媒体にして造り上げられたものなのだろう。
(恐らくこの火傷の跡も…治りはしない)
それがわかってしまったからこそ。杏寿郎は殊更優しく、目の前の体に触れた。
「俺の羽織で包む。じっとしていてくれ」
「…杏寿郎」
「ん?」
「……ありがと…」
羽織を脱いで蛍の背へと被せれば、ぽそりと耳元で思いを告げられた。
どこまでも蛍を思わせる仕草に困ったように笑って、杏寿郎はゆっくりと蛍の体を抱き上げた。
「礼など。俺のほたるだ、放ってはおけない」