第33章 うつつ夢列車
愛おしいひとを亡くしてしまう世界を知っている。
思い通りにならない歯痒さの隙間に立たされる哀しみを知っている。
だからこそ。
愛したいと思えるひとから、同じに愛されること。
未来を望む者達と、同じ世界で生きられること。
何気なく交わす言葉の一つ一つが。
体温と共に感じる想いの一つ一つが。
奇跡のようなものだとわかるから。
「見間違えるはずがないんだ」
唯一のひとを。
「見間違え…って…なん、で」
「何より己の世界を知っているのは、己自身だからだ」
その世界を語れるのは。
その世界を誇れるのは。
痛み、抗い、生き抜いてきた自分自身だけだ。
「此処は、俺の生きていく世界じゃない」
強く握りしめていた、蛍の指先が緩んだ。
「…った、し…」
震える声が、涙色に変わる。
「わた…し…は、ほたる…じゃない、の…?」
目尻の縁に溜まる僅かな雫。
無事な左目だけが流す涙に、杏寿郎は無言で眉を潜めた。
目の前の蛍は、まるで何も知らない蛍そのもののようだ。
(演技…と言うには少し違う。鬼の術がどこまで及んでいるのかわからないが、彼女が蛍でないことは確かだ)
己の心もそうだったが、決定的なものはもう一つ。
現れた朔ノ夜が、この蛍には反応を示さない。
主に従わない術などない。
それこそが全ての答えだ。
それでも奇妙な感覚は残る。
(もし俺の願望が具現化したものだという予想が当たっていれば…この蛍は、俺を陥れようとして此処に存在している訳ではない)
純粋に杏寿郎を慕う一人の女性として、この場に現れていたのなら。
(…残酷だな)
繋いでいない手で拳を握る。
同情を誘う為の工作なのか。
だとしたらなんとも悪質なものか。
(悪鬼らしいものだ)
蛍の談判がなくとも、無限列車に乗る鬼が紛れもない斬首対象だと認識できた。