第33章 うつつ夢列車
「蛍、ちゃん」
蛍の足元を舞う黒々しい影。
思わず一歩下がる姉の顔を、蛍は真正面から見ていた。
大好きで、大好きで。何より大切で。
世界そのものだった姉だからこそ。
その姉の生きた証を、己の欲望が踏み荒らすことが許せなかった。
「朔」
蛍の二度目の呼びかけに"それ"は応えた。
どぷりと影の飛沫から舞い上がったのは、同じに黒々しい姿をした土佐錦魚。
黒い鱗を光の角度で彩りながら、蛍と姉の間に静かに浮き上がる。
「…ぁ…」
底の見えない黒い朔ノ夜の眼が、姉の目と重なる。
震える喉は言葉を成さず、姉は更に一歩後退った。
じっと微動だにしない眼(まなこ)は姉を捉えたまま離さない。
「恐らく此処は鬼の術の中だ。抜け道を探して」
動きを見せたのは、蛍の指示を受けた為だった。
底の見えない眼が、きょろりと世界を見渡す。
ひらりと長い尾鰭を扇のように舞わせると、朔ノ夜は青空へ向かい飛び上がった。
「ほ…蛍、ちゃん。私は…」
「ごめんね、姉さん」
動揺を隠し切れない姉を見つめる蛍の目に、敵意や怒りはない。
「私は今も変わらず姉さんが大好きだから。私の世界の中心だった人だから。だから自分で自分が許せない。例え目の前にいる姉さんが、全てを許してくれたとしても」
ただ言いようのない慈しみと哀しみだけが浮かんでいる。
その緋色の鮮やかな瞳を見返して、姉の唇の端がきゅっと結ばれた。
「じゃあ、私が許さなかったら?」
唇はもう、柔らかな弧を描いてはいなかった。
「私が貴女にしたことを憶えているなら、貴女が私にしたことも憶えているでしょう?」
強く結ばれた唇の端から、異変を見せた。
「! 姉さ…」
白い肌はじわじわと黒ずみのように変色していき、張りのあった皮膚は皺を寄せ捲れ上がっていく。
「私が選んだ道だとしても、それも変わらない事実」
黒ずみ、澱み、腐食した肉はぼろりと崩れ、内側の血肉を見せた。
「貴女が、私を喰らったことは」