第33章 うつつ夢列車
「…それは悪いことなの…?」
静かに唇を噛み締めた姉が一歩、歩み寄る。
「人間なら誰だってそうでしょう。後悔して、振り返って、嘆いて、欲を出して。それの何が悪いの? 幸せを願うことの何が罪なの。蛍ちゃんは何も悪いことなんてしていない」
「…姉さんは、こんな時まで優しいんだね」
「当然でしょう。人なら誰だって幸せになりたいと願うはずよ。鬼であっても人の心が在る蛍ちゃんもそう。求める何かがあるから前に進める。縋りたいものがあるから顔を上げられる。それの何が悪いことなの」
拳を握る蛍の手に、そう、と触れる。
壊れ物を扱うように優しく、優しく。導くように手を握る姉の体温に、蛍は静かに視線を落とした。
「私には…何が悪くて何が悪くないのかなんて、わからないよ。善悪なんて決められない」
見つめる先は、寄り添う姉の掌。
「でも一つだけ、確かなことはある」
人の誰しもが持つ欲が、強く背を押す励みとなることも。他人を踏み付けにし喰らうことも知っている。
人によって形を変えるそれは善にも悪にもなり得る。
故に蛍の中にも正解はなく、姉の言葉を否定はできなかった。
ただ一つだけ、揺るぎないものがある。
「私の姉さんは、最期の最期まで私を想ってくれた優しい人だった。最期の最期だけ、生きることが苦しいと弱音を吐き出した強い人だった」
何年経とうとも鮮明に憶えている。
自分が鬼になった瞬間と、そこから人間へと戻してくれた姉の最期の姿は。
「全うに生きていれば仏様はお天道様の上から見ていてくれるって、よく言っていた。誰よりも世界を信じて、愛して、生きていた人だった」
同じに成長したから今だからわかる。
自分にとって世界の全てで大きな存在に見えていた姉もまた、まだ若く世間の多くを知らない女性だった。
弱肉強食の世界では、弱者と捉えられる存在だ。
それでも誰より家族を愛し、強く生きようとした。
それでも慈悲を忘れず、世界を愛して生きていた。