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いろはに鬼と ちりぬるを【鬼滅の刃】

第33章 うつつ夢列車



 幸福だけの日々なら、今ここにある幸せの価値もわからなかった。
 当たり前のようで当たり前でない毎日が、どんなに尊いものか。
 なんでもない日々を過ごすことが、どんなに奇跡であるものか。

 痛みがあるから、命の重さを知れたのだ。


「蛍ちゃん…だから、もうそんな辛いことはないように私が」

「姉さん」


 優しく紡ぐ姉の声は変わらずあたたかい。
 そのあたたかさを切り離すように、蛍は感情の見えない声で遮った。


「どんなに願っても、縋っても、現実は振り返ったりしない。都合のいい景色を見せて、欲しいだけの言葉を吐いて、甘い空気ばかり吸わせてくれたりなんてしない」


 この世は弱肉強食。
 それは人の世も鬼の世も変わらないことを知った。

 自分のように、鬼の中に人が在るように。
 人の中にも鬼は存在するのだ。


「私は、そういう世界で生きてきた」

「……」

「姉さんも、そういう世界で生きてきたはずだよ」


 他人の辛さを、哀しみを、痛みを、誰より知っていたのは姉だった。
 だからそんなものから遠ざけようと、幼い頃から"姉"は"姉"として蛍の前に立ってくれていた。
 浮世の世界から守ろうとしてくれたのだ。


「…ごめんね」


 瞳孔が縦に割れた鬼の緋色目。
 人成らざるその目は哀しみに揺れに揺れる。


「なんで蛍ちゃんが謝るの…?」

「…振り返るのは現実じゃない。後悔して、欲をかいて、"あの時ああしていれば"。"あの時ああだったなら"って。振り返ってばかりなのは私だから」


 血が滲む程に噛み締めた唇から覗く大きな牙。
 突き放した手で握る拳は、鋭い爪を持つ。
 妊婦のような体型は、いつの間にかなくなっていた。


「だから姉さんを、こんな形で呼んでしまった」


 原理も道理もわからない。
 それでも目の前の姉の姿は、己の欲望の形の一つだと蛍は感じ取っていた。

 杏寿郎と出会い、姉の死をようやく認められるようになった。
 それでもまだ心の奥底にこびり付いて残っていた、浅はかな欲だ。

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