第33章 うつつ夢列車
「どうしたのその目。まさか槇寿郎さんに何かされたりした?」
「ぁっいえ、なんでもないです。父上とは何も」
千寿郎の目尻に僅かに残る涙の痕跡。
目敏くそれを見つけた蛍は、ずいと千寿郎の前に身を乗り出した。
「蛍、そういう話は家に入ってからにしよう。でないと体が」
焦りを覚えたのは杏寿郎だ。
日傘が作る日陰が蛍の体から離れないように、いつの間にか持ち手を握るのは自分だけになっていた。
蛍はというと買い物の荷物を抱えたまま、伸ばした指先は千寿郎へと触れている。
「じゃあ怪我をしたの? どこか痛い? 大丈夫?」
「ん…っだ、いじょうぶ、です」
目尻の涙は蛍の握る着物の袖に吸われて消える。
それでも指先は千寿郎の頬に触れたまま、覗き込む蛍の顔は心配そうな面持ちで目の前の少年しか見えていない。
そんな蛍にぴんと背筋を伸ばすと、千寿郎は恥ずかしそうにふるりと頸を横に振った。
恥ずかしながらも、どこかくすぐったそうに。その感情が良いものであることは、長年兄を務めてきた杏寿郎だからこそわかる。
「姉上を見たら元気が出ました。だから大丈夫です」
綻ぶような笑顔を見せて、今度は千寿郎の手が蛍へと伸びた。
「荷物、持ちますね。買い物ありがとうございます」
「これくらいなら私が」
「僕が持ちたいんです。持たせてください」
「…そう? じゃあ、お言葉に甘えて」
「姉上も疲れたでしょう。夕餉の仕込みは僕がしますから、一休みしてください」
「これくらいどうってことないよ」
笑顔で言葉を交わしながら、共に玄関内へと向かう。
その後ろを律義にぴたりとついて歩く杏寿郎の表情は、未だ固い。
蛍の体に添えるように差し続けている日傘に、はたと蛍は会話を止めると振り返った。
「ってごめん。杏寿郎も、ただいま」
ばつが悪そうに砕けて笑い、日傘の持ち手を握る。
ただ其処にいるだけで、広い屋敷全体が明るくなるような。蛍だけが持つ空気を感じて、自然と杏寿郎も口元を綻ばせていた。
「ああ。おかえり」