第33章 うつつ夢列車
「──ぁ。兄上」
一度も振り返らなかった父の部屋を後にして、一人廊下を歩む。
帰りを待っていた千寿郎が、そわそわと部屋の一室から顔を覗かせた。
「父上は喜んでくれましたか?」
その顔にはほんのりと笑顔が浮かんでいる。
つい数分前の杏寿郎のように、僅かな期待を込めていたのだろう。
兄が柱になれば、父も改心してくれると。
「俺も柱になったら、父上に認めてもらえるでしょうか」
そして自分自身も。
同じく鬼殺隊の実力を積めば、父も目を向けてくれるだろうと。
「……」
笑顔で駆け寄る千寿郎に、杏寿郎はすぐに口を開けなかった。
父は昔からああではなかった。
鬼殺隊で柱にまでなった父だ。
情熱のある人だったのに、ある日突然剣士を辞めた。
突然。
あんなにも熱心に剣士として育ててくれていた人が、何故。
(…考えても仕方がないことは考えるな)
じわじわと負の感情が心を覆い尽くそうとする。
そんなものもう慣れたものだ。
その度に遮断してきた心を、同じに閉じ込める。
これ以上負の感情を育てても、何も解決はしない。
(千寿郎はもっと可哀想だろう。物心つく前に病死した母の記憶はほとんどなく、父はあの状態だ)
自分の境遇がなんだ。
それよりも弟を見ろ。
そう己を叱咤して、杏寿郎は動かなかった足で踏み出した。
そっと千寿郎の前で片膝をつくと、不安げな幼い目と視線を合わせる。
「正直に言う。父は喜んでくれなかった。どうでもいいとのことだ」
片手を千寿郎の細い腕に寄せて、静かに語り掛ける。
そこには嘘偽りなど一欠片も乗せなかった。
誰よりも大切な弟なのだ。
嘘をつくことなどはしない。
「しかし、そんなことで俺の情熱はなくならない! 心の炎が消えることはない! 俺は決して挫けない!」
それもまた嘘偽りのない本音だ。
折れるな。挫けるな。
自分さえ前を向いていれば、また何度だって踏み出すことはできるのだから。