第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
テンジの鬼血術により、蛍の記憶を根こそぎ奪われた。
それでも蛍の残された髪束が陽光により燃える様を目にした時、杏寿郎の頬を伝ったのは確かな瞳の雫だった。
杏寿郎自身、構えも自覚もなかった。
それでも身体は自然と感情を訴え、涙を流したのだ。
あの場にいた槇寿郎や実弥を驚かせたのは、無意識に流した涙だからではない。
杏寿郎も最後に涙したのはいつの頃か、遠い記憶でしかなかったものだったからだ。
いつの間にか泣くことに不慣れになってしまったこの身体が、生むことのできた感情のひとつ。
「思い起こさせてくれたのは蛍なんだ」
「?…何を?」
一体何を思い起こさせたのか。
具体的な言葉を聞いていない蛍には見当もつかない。
きょとんと頸を傾げる蛍にひとつ深い笑みを向けただけで、杏寿郎は優しくその体を抱き寄せ応えた。
「俺にとって、とても大事な心の一つだ」
「うん。それは、何?」
「誰しも持ち得ているものかもしれないな。蛍の中にも」
「成程…それは?」
「だが俺は暫く忘れていたものだった」
「ふんふん。で?」
「今宵は一層星空が綺麗に見えるなぁ」
「はい言う気ないねそれっ」
蛍を抱いたまま、煌めく銀の簪を視界の隅に声を上げて笑う。
テンポよく弾む蛍の声は、咎めるものであってもこうも心地良い。
「はははっ俺も曲がりなりにも男だからな。恰好を付けたい時もある」
「…まぁ、杏寿郎がそれでいいなら…いいんだけど。ね」
くしゃくしゃにして笑う笑顔が余りに無邪気なものだからか。思わず突っ込んだものの、蛍は長引かせることなく大人しく包む腕の中に身を預けた。
「なら私も杏寿郎の心をひとつ、生ませることができたんだ」
「うむ」
「喜ばしいこと、だね」
「そうだな」
「…今夜は星が綺麗だねぇ」
「ふ、くくっ。ああ、綺麗だ」
緩やかに、穏やかに。
並ぶ声色は、柔らかな笑い声を誘う。