第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「だとしたら、俺には喜ばしい限りだな」
真珠のように綺麗な涙は、頬を滑るとすぐに消えてしまう。
負の感情で流したものではないものは、涙の跡も残さない。
だからこそ辿るように、杏寿郎の指の甲が目尻に触れた。
「君の心をひとつ、生むことができた」
くしゃりと笑う。少年のようにも見える無邪気な笑顔。
嬉しそうに告げる言葉が、蛍の胸にすとんと落ちてくる。
(──あ。そっか)
杏寿郎の言っていた、魂や心という名が付く瞬間とはこういうものではないだろうか。
胸の内側から染み入るように広がるあたたかい熱は、まるで杏寿郎の呼吸で纏う炎が灯ったかのようだ。
「…すごいね、杏寿郎は」
目尻に触れる掌に、そっと手を伸ばす。
両手で包み握ると、頬に寄せて掌の温かさを味わった。
己の中に生まれた灯火と、同じ熱だ。
「鬼よりすごい術を持ってるみたい」
「ははっ、鬼の君に褒めてもらえるとは光栄の至りだな」
「鬼じゃないからすごいの。私のはただの術式みたいなものだから」
「…そうでもないぞ」
味わうように閉じていた瞼が上がる。
きょとりと視線で疑問を投げる蛍に、杏寿郎は意味深く笑った。
「俺も君に与えてもらった心がある。その涙のように」
「涙?…私、杏寿郎が泣いたところ見たことない…あ。笑い過ぎて泣いてた姿はあるけど」
「あれは蛍が愛らしくて堪らなかっただけだな」
「……」
「大いに本音だぞ。…と、そういう話ではなく」
転倒した際に掠れてしまったと主張していた化粧姿。
それでも見つかってしまった時は恥ずかしさ故に、体を饅頭のように丸めて顔を隠し籠城していた蛍。
杏寿郎にとっては、思い出しただけで頬が緩むような可愛らしさだ。
しかし今はその話を深めても蛍は良い顔はしないだろう。
そもそも告げたいこととも違う。
蛍の眉が潜まる前にと、手早く話を切り替えた。
「俺自身も自覚のないまま身体が覚えたものだ。与えてくれたのは他ならない、蛍だった」