第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
『よく耐えたな。偉いぞ』
殺伐とした視線ばかりが突き刺さっていた毎日。
その乾いた空気の中で、初めて人らしい感情に間近で触れられた気がした。
くしゃりと年相応に笑う杏寿郎に、くしゃりと頭を掻き撫でられて。
「柚霧の時は、泣くことも少なかったけど。杏寿郎の前では、出てしまうというか…」
『鬼の身体というのは、都合よくなどできていない。悪鬼ならば心を擦り減らすこともないかもしれないが、君は違う。この心は、この体のように傷付いても簡単に元通りになる訳ではないんだ』
君の心は鬼ではないのだから、と。
蛍が都合の良いものとばかり見ていた鬼の体の不都合さを、諭された花街でのあの夜。
自分でも驚く程自然に、無自覚に、柚霧の目元を伝ったのは涙の雫だった。
「泣くことが多くなった気がする。杏寿郎の前でだと」
不思議と、恥ずかしいことだとは思わなかった。
柚霧となってからは姉の前でも笑顔を絶やさなかった自分が、こうも感情に素直に涙を流せるようになったのは。
「杏寿郎のお陰で、泣き虫になったのかな」
他ならない、彼のお陰だ。
それが哀しいことだとは思わない。
寧ろ新しい発見をしたかのように、恥ずかしそうに肩を竦めて笑う。
そんな蛍の綻ぶ表情に、杏寿郎は無言で目を細めた。
泣き虫と比喩する程、蛍が頻繁に涙を見せる女性だとは思っていない。
それで言うなら同じ継子であった蜜璃の方が、よく泣き顔を晒していた。
蛍はどちらかと言えば、一人で耐え忍ぶ姿の方がよく見えていた姿勢に思う。
だからこそ大切にしなければと思うのだ。
彼女の頬を伝う涙の一滴でさえも。
素直に吐露できるようになった感情の一つ一つを。
だからいつも手を伸ばしてしまうのか。
一つも取り零さないように、丁寧に拾い上げていけるように。