第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
無二のひとだと思った。
このひとだから与えられるものがあって、感じられるものがある。
盲目や依存とは違う。
寄り添える心に執着のようなこびり付きはなく、自然とあるべきところのようにすとんと収まった。
ちぐはぐで凹凸のある互いの心。
なのに触れ合えば、こうもひたりと心地良く当て嵌まる。
「大好きだよ。杏寿郎の、まるごとせんぶ」
ふうわりと頬を上げて。
濡れた緋色を柔く細めて。
微笑む蛍の肌を滑る、一滴の雫。
「──…」
嗚呼、と憂いの吐息が零れ落ちそうになる。
まるで一瞬の絵画を切り取ったかのような、目に焼き付く彼女の表情に。仕草に。想いに。
「一生離せなくなるだろう」
取り零すものがないようにと、杏寿郎の両手は自然と目の前の体を抱きしめていた。
「俺は君の涙に弱いんだ」
「ふふ…じゃあ、得したのか、な」
くすりと小さく笑った声が、ごめんねと更にか細い声を足す。
「泣くつもりは、なかったんだけど…」
「ああ、いや」
もそもそと腕の中で身を捩る。
触れ合う熱を帯びた肌も、ぽそぽそと儚く告げる声も、涙を飲み込むように閉じる瞼も、何もかもが愛おしくて仕方がない。
「責めてはいない。俺の言い方も悪かった。前にも言ったが、余りに綺麗なものだから。ずっと見ていたくなるんだ」
瞑った瞼の上にそっと唇で触れれば、濡れた緋色がゆっくりと顔を出す。
そこに映し出された自身の顔は、自分でも見たことがないような緩やかな表情をしていた。
「蛍には笑っていて欲しいのに、泣き顔ももっと見たくなる。俺の前でこそ見せてくれるものなら尚更」
ぱちりと瞬いた緋色が、もう一度。瞬いては睫毛を揺らす。
「…そう、かも。杏寿郎に初めて抱きしめられた時も、そうだったけど…」
「む。稀血を前に、己を喰らって見せた時のことか」
「うん。泣いたきっかけは姉さんだったけど。でも、触れてくれた杏寿郎の手が…優しくて、温かかったから。安心とか、嬉しさとか、現実とか…色んな感情が混ざり合って熱くなって、余計に泣いてしまったというか…」