第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
夫婦の契りを交わした。
だからこそこの日は生涯、忘れられない日となった。
なのにそれと同様の、ともすれば更に胸を熱く湧かせる言葉を貰ったような気がしたのだ。
魂をも震わせるような想いを。
「なんだか、杏寿郎の人生まるごと、貰っちゃった気がする」
すん、と鼻を慣らして笑う。
ようやく蛍のその涙が負の感情を一つも抱えていないことを知って、ほっと杏寿郎の肩から力が抜けた。
「杏寿郎というひとを、まるごとぜんぶ」
「…元よりそのつもりだぞ」
安堵から、穏やかな表情へと変わる。
真珠のように肌を転がり落ちゆく、その雫を追いかけるように指の腹で受け止めた。
「俺の魂は、触れるべき想いのある"ここ"で名を付ける。貰ってくれるのならば、俺の人生など丸ごとやろう。だから蛍の全ても俺にくれ」
ぱちりと瞬く瞼が、真珠を落とす。
湯船で上気した頬を緩めて、蛍は軽く頸を傾げた。
「…貰ってくれるの?」
「是が非でも」
問いかければ間髪入れず返された。
真顔で告げる杏寿郎の切り替えの速さに、思わず噴き出してしまう。
「ん、ふっ」
「蛍」
「ふふふっ」
「本音を言っただけだぞ」
「ふふ、うん。嬉しくて。ああ、好きだなぁって」
人生だとか、魂だとか。
それだけ重要で大きな話をしているというのに、弾む笑いは軽やかに舞う。
月房屋にも、そんなことを口にする男達はいた。
人生を捧げたいと告げる者もいれば、命尽きるまで共にしようと告げてきた者もいた。
そのどれもが盲目的で、依存的で、柚霧の足を常に一歩退かせていたものだ。
それが仕事場だったこともあるだろう。
しかしそこで見てきた数多の男達と決定的に違うことがある。
「杏寿郎のこと。すごく、好きだなぁって」
そこに蛍の想いも在ることだ。
単純なようで、何より大切なことだった。
想い、想われることがどんなに奇跡的なことなのか。身をもって知ることができたのだから。
(杏寿郎のようなひとは、この先きっと現れないんだろうな)
そう思わせられる程に。