第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「君が〝ここに〟と告げたように」
頬に触れていた指先が辿るように下りていく。
蛍の肌を晒す胸元で止まると、柔らかな谷間に触れた。
欲を持った手つきではなく、そっと丁寧な仕草で。
「命ある限りと言ったが、訂正する。君のここに俺の心はある。魂は生まれる。限りあるものではない。君が、蛍が、俺を想い馳せてくれたなら」
湯船の蒸気で濡れた、金の輪を持つ朱の瞳。
静かに上がるその目はただひとつ、想い焦がれる相手を見つめていた。
「〝俺〟は君と共にある」
夢物語を語るような声ではなかった。
ただ一つの事実を告げるように、静かな声が含み鳴る。
胸に触れる掌のぬくもり。
じんわりと伝わる熱は、湯船の中の所為なのか。いつもより熱く感じた。
だからなのか。
流れ込むその熱のように、熱いものが心の奥底へと落ちて、血液を流れるように広がったのは。
熱く、あつく、体の内側を巡り巡って。
「──…」
「…ほたる?」
目頭にこみ上げたものは、透明な雫を生んだ。
「なっ…ん…ど、どうした」
嗚咽一つ漏らすことなく、ほろほろと蛍の両眼から零れ落ちていく透明な粒。
涙にしては静かな姿に、相反して杏寿郎はぎょっと慌てた。
胸に触れていた手を引っ込めると、あたふたと蛍に触れようとして触れられまいと周りを彷徨わせる。
泣かせるようなことを言っただろうか。
そんなつもりは毛頭なかったし、そんな言葉を投げかけたようにも思えなかった。
だからこそ不安が表に出てしまう。
「何か失礼なことでも…っいや、したつもりはないが。胸に触れたのは、その、疚しいつもりはなくてだな…っ」
「っ…ふ、ちが…」
ほろほろと零れる涙を止めることなく。目尻に緩く握った手を添えて、蛍は笑った。
「すごい、言葉。もらっちゃったなぁ、って」