第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「個室露天風呂にもう一回入りたいっ」
両手を繋いで握り締めて、弾む声のままに誘う。
「木目の露天風呂には入れたけど、隣の岩肌の露天風呂には入ってなかったでしょ?」
「成程。屋根があるのは檜風呂の方だけだったからな」
「うん。夜なら入れると思って。後で杏寿郎と入りたいな」
「うむ。それなら俺も大賛成だ。星見の露天風呂とはなんとも粋だな。ぜひ入りたい」
「やった」
大きく頷く杏寿郎に、忽ちに蛍の顔に花が咲く。
「夜の露天風呂…夜の露天風呂かぁ…今は夜も深いし。周りを起こさないように、こっそり入らなきゃね」
「此処は離れだ。そう心配することもないだろう」
「そう? でも念の為にね。お昼みたいなはしゃぎ方をしてたらまたあのお婆さんが見に来ちゃうかも」
「あの御尊老は気配の馴染み方がすごぶる上手かったからな…油断していたとはいえ、驚いた」
「気配断ちじゃなくて馴染み方?」
「うむ。部屋の空気と同化していたかのようだ」
「ふふっ、うん。それはなんかわかるかも。やっぱりこっそりゆっくり、入らなきゃ」
立てた人差し指を口元に当てて、しぃーっと悪戯っぽく笑う。
蛍の無邪気な反応を前に、真顔で藤の老婆の脅威を語っていた杏寿郎はふと力を抜いた。
へなりと眉尻は下がり、口角も緩む。
音もなく深く息をつくと、表情を綻ばせたまま目を細めた。
「…不思議だな」
「ん?」
「蛍と見る世界は、馴染みある風景であっても輝いて見える」
「え?」
「心なしか、眩く見えるんだ」
「そう…?」
柔く微笑む杏寿郎の視線に、そわりと蛍が辺りを見渡す。
手持ち無沙汰に立てていた人差し指で額を擦りながら、不思議そうに頸を傾げた。
「私にはそこまで眩しくは…あ。部屋の灯り強かった? 少し暗くする?」
「いや、」
そういう意味ではない。と告げよう開いた杏寿郎の口は言葉を成さなかった。
静かに閉じると、徐に深く上向きに影を刻む。
見えてしまったからだ。
部屋の行灯を見る蛍の横顔が、まとめ上げた髪の下から覗く小耳が、じんわりと赤く染まっていたのを。