第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
そわそわと落ち着きなく視線を揺らす蛍とは逆に、杏寿郎は真っ直ぐに前を向いたまま微動だにしない。
しかしその手はしっかりと蛍の手首を掴んだままだ。
離して。とも言えない空気に蛍は唇を結ぶ他なかった。
そのまま凡そ五分程。
「あの…杏寿郎…」
結局、沈黙に耐え切れなくなった蛍が先に根を上げた。
「なんだ?」
「なんか…久しぶりに視線が合わないんだけど…」
「精神を統一している」
「精神統一? いつもお風呂場でそんなことしてたっけ」
「していないな」
「ならなんで」
前を向いていた杏寿郎の顔が、ようやく僅かに動いた。
顎を引いて、僅かに頸を傾けて、視線を流す。
濡れた前髪が重力に従い額にはらりと落ちる。
その隙間から覗くように、金輪の双眸がこちらを向いていた。
「大変に甘い誘惑を受けた。今この場で襲わないように気を静めている」
ぽかん、と軽く口を開けた蛍が再び沈黙を流す。
一瞬何を言われたのかよくわからなかった。
「──ッ」
しかし何もわからない無垢な少年ではないのだ。
思考が稼働をし始めた途端に理解した己の状況に、ぶわりと顔が赤面する。
「もう少し体を温めたら出るとしよう」
再び前を向いた杏寿郎の視線は重ならない。
「その後のことは保証できない。が、止める気もない。いいな」
それでも淡々としながら有無を言わさない杏寿郎の呼びかけに、蛍は胸の早鐘を止めることができず。
「…は、い」
零れ落ちたのは、なんとも小さくぎこちない返事。
俯けば揺れる湯船の中に己の顔を見つけて、蛍はきゅっと目を瞑った。
男の姿でありながら、なんとも情けない顔を見たような気がして。