第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
その後の五分は、何を考えていたのかよく憶えていない。
握られた手首が熱くて。湯船に浸かる体も内側から火照るように熱くて。
このままでは逆上せてしまうのではないか。
そう己の限界を感じた頃、見計らったように杏寿郎が動いた。
ざぱりと湯を跳ねさせて立ち上がる。
あ、と蛍が顔を上げる前に手首を引かれた。
「なっ、杏寿郎っ?」
「また部屋に戻るにはあそこを通る。陽も傾いてきたが用心に越したことはない。俺が運ぼう」
「で、でも」
「ああ、体は小さくしなくても大丈夫そうだな。そのままでいい」
あっさりと蛍の体を抱き上げたかと思えば、囲うように太い腕で包み込む。
陽光から守ってくれる為の行為だとわかっていても鼓動のざわめきは治まらない。
あたふたといつもより長い手足を揺らす蛍には構わず、姫抱きのまま重さなど感じさせない足取りで杏寿郎は進んだ。
男の姿で抱いて運ばれるのは、なんとなく恥ずかしい。
いつもなら自然と頸に伸ばす手も動かせずに、胸の前で握りしめたまま蛍は俯いた。
「ああ、それと」
ふと何か思い出したように杏寿郎の声が上がる。
「擬態は解かないように」
「……え?」
俯いていた顔が反射的に上がる。
今度こそ杏寿郎の告げた言葉の意味がよくわからなかった。
擬態というのはまず間違いなく男と化していることだろう。
しかし何故それを解くなと言うのか。
疑問を口にしようとした時、既に杏寿郎の手は脱衣所の戸を開けていた。
「少し長湯をしてしまったが、立てるか?」
「あ…うん。ありがとう。ごめん、重かったでしょ」
「重くはないな、蛍の体だ。君は羽毛のように軽いから」
「だけど今は男でンっ」
脱衣所に下ろされてようやく一息つく。
かと思いきや、秒を置かずに唇を奪われた。
先程、頭皮マッサージを受けていた時に触れ合ったような優しい口付けとは天と地程に違う。
唇を有無言わさず奪うような口付けは深く、蛍の声ごと食らった。