第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「本当、至れり尽くせりだなぁ…ありがと…杏寿郎」
きょうじゅろう、と紡ぐ唇が花弁を開く蜜花のように見えた。
その先に感じられるものが甘いことを知っている。
だから誘われたのか。
無防備で柔らかなそこに、気付けばそっと触れていた。
自身の唇で。
「…杏…?」
「っすまん」
ぱちり、と蛍の目が開いたと同時に目が合う。
同じに唖然と驚いた杏寿郎の目と。
咄嗟に身を退くと、杏寿郎ががばりと勢いよく頭を下げた。
「また余計なことをしてしまった。今のは忘れてくれ!」
「杏じゅ」
「さぁもう一度髪を洗い流そう。それで俺の三助も終いだ」
「杏寿郎」
「大丈夫だ、俺はあっちを向いているから」
「杏寿郎ってば!」
そそくさと桶に湯を入れようとした腕を強く引かれる。
止めざる終えないその状況に、杏寿郎は渋々と振り返った。
折角蛍が無垢な思いで楽しんでくれていたというのに、些細な自分の行為で台無しにしてしまった。
そんな申し訳なさが募る。
「…ごめん」
しかし目が合った蛍の方こそ、眉尻を下げると居た堪れない表情を見せてきた。
「そんな顔をさせたかった訳じゃないの。ごめんね」
「いや…しかし…悪いのは、俺で」
「悪い悪くないなんてないよ。杏寿郎に触れられて嫌な気になんてならないから。だから謝らないで」
予想していたどの表情とも違う蛍に、今度は杏寿郎が目を丸くした。
「よくよく考えたら、結構酷いこと言っちゃったよねって…その…思ってたり、してたというか…」
「酷いこと…言ったか? 蛍が?」
「その…杏寿郎が求めてくれた想いを、否定するようなことを言ったでしょ…」
「……言ったか?」
「言ったよ」
「?」
「何そのわかりませんって言うような顔」
「本当にわからないんだが」
いつ想いを否定されただろうか。
杏寿郎が頸を傾げれば、習うように頸を傾げた蛍が唇を尖らせる。
「今は杏寿郎とゆっくり露天風呂を楽しみたいって言ったでしょ。遠回しの否定みたいなものだなって後から思っちゃって」
「…あれが否定ならば、世に存在する大半の言葉が否定になってしまうぞ…」