第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「痒いところはないか?」
「うん~…気持ちいい…」
「そうか。ならよかった」
「その指圧がなんとも…はぁあ…」
「蛍も偶にしてくれていただろう? 見よう見まねだが上手くやれているだろうか」
「うん。もうちょっとこう、耳の後ろと…あーそこそこ…はぁああ~…」
「…昔、熱い風呂に浸かって感嘆していた父上を思い出すな…」
「槇寿郎さんにそんな一面あったの」
「大昔だが」
盛大に心地良い溜息をつきながら目を瞑る。そんな蛍の洗い流した頭を両手を広げて包むように握り、ぐ、ぐ、と指圧マッサージをかけていく。
風呂場で背を流してくれた蛍がしてくれた時は頭の凝りが解れていくようでとても気持ちがよかった。
同時に任務では体だけでなく頭も凝るのだとよくよく思い知ったものだ。
経緯は違えど、幼い頃共に湯船に浸かった父が盛大に心地良い溜息をついていたことをふと思い出した。
遠回しに言えば親父臭いというか。
しかし蛍は気にした様子なく本当に心地良さそうにしているものだから、つい杏寿郎にも笑みが漏れる。
「もうちょっと右も…あ、そこ…うん…きもちい…」
「…そう、か」
かと思えば、ほう。と熱い吐息をつく。
両目を閉じて酔いしれるように柔く紡ぐ蛍の声に、胸の内が騒いだ。
前言撤回。親父臭いなどとあるものか。
外付けであっても風呂場は風呂場。
開放的になっているのかいつもより通る蛍の声に、杏寿郎は自然と唇を強めに結んでいた。
疚しい気持ちを抱いてはいけない。
折角の蛍の初露天風呂なのだから。
「これなら気持ちよくなれているか?」
「うん…杏寿郎の手、きもちいい…」
他愛ない話をすればまた蛍は無邪気な少年の顔を見せてくれるだろう。
そう踏んで話しかけてみたが失敗した。
杏寿郎の手に頭を預けるように傾けている蛍は、ほとんど仰向けに天を仰いでいる。
後ろから覗き込む杏寿郎の視界に映る蛍の表情は両目を瞑り無防備に晒されていた。
風呂場故か。うっとりと高揚した顔で頬を緩め、寝入る顔とは違う表情を見せてくる。
薄く開いた唇から零れ落ちる吐息に、目が釘付けになった。