第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
それでも、あわよくばの気持ちはどこかにあった。
飲むという程の行為でもなかったのだ。
このまま何事もなく時が流れれば、無かったことにもできると。
「飲む、という程のことはしてないよ。のびあがりに捕まった時にね、自分も怪我をしたけど…その」
空中で触手のような無数の腕に捕まった時だ。
共に抗い戦ってくれた少年が傍にいた。
「鬼太郎くんの怪我も酷くて。匂いが…したから」
最後までのびあがりに抗い戦っていた鬼太郎の血が、数滴に手の甲に飛んだだけのこと。
本来なら知らぬフリができるものが、乾いた喉がひりついて無視できなかった。
この血を飲めば一時的に力を増して、鬼太郎の助力ができるかもしれない。
その可能性にも賭けて、手の甲に付いた数滴の血を舐め取った。
「どうにかその場から脱出しなきゃって。そればかりで。だから、鬼太郎くんの血を少しだけ貰ったの。ほんの一、二滴程だよ」
「…成程」
「結果的には、やっぱり少なかったみたいで。杏寿郎に血を貰った時みたいに即時効果はなかったんだけど。でも今も喉が渇いていないのは、多分それがあったからじゃないかな」
「…鬼太郎少年は人間ではないからな…普段と違う兆候が出ても不思議ではないか…」
「うん」
納得するように頷く杏寿郎に、ほっと蛍は肩の力を抜いた。
やはり話せば理解してくれた。
後味の悪い空気にはならずに蛍にも笑顔が戻る。
「それを鬼太郎少年は?」
「ごめん…話してないの。私が人の血を飲むことは伝えられたんだけど…それだけで精一杯で。鬼太郎くんの血まで飲みました、なんて言えなくて…」
「そうか…いや、仕方のないことだ。鬼太郎少年は悪しき妖怪から人間を守っていた者だ。そんな相手に鬼の性質を晒すだけでも勇気がいることだろう。寧ろよく話してくれた。…最後に別れを告げた時か?」
「うん」
労うように、杏寿郎の手が湿気を帯びた蛍の髪を梳くように撫でる。
「鬼太郎少年はきっと受け入れてくれたのだろう?」
先を見通す思考は健在で、しかし柔らかな笑顔でよかったと告げる杏寿郎は責めるような態度ではない。
もう一度頷いて身を預けるように、蛍は目の前の体にそっと寄り添った。