第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「じゃあお風呂後のご飯はゆっくりでも大丈夫かな?」
「そうだな。すぐに食事を取る必要はない」
笑顔で頸を傾ける蛍に、頷く杏寿郎の濡れた手がそっと頬に触れる。
親指の腹が血色良く色付く唇に触れて、蛍の体がぴくりと止まった。
接吻の続きなのか。
嬉しい反面、こんな所でと思考の片隅が躊躇する。
顔を寄せる杏寿郎に、きゅっと唇を結んだ。
「待っ──」
「蛍も腹は減っていないようだな」
唇は触れ合わなかった。
杏寿郎が寄せたのは耳元で、確信めいた言葉を口にする。
「…え」
「とっくに飢餓の待機期間は過ぎているというのに、蛍自身からその兆候は見られない。まさかと思っていたがどうやら本当のようだ」
ぽかんと呆ける蛍から顔を離して、改めて杏寿郎がその姿を視界に映す。
深い接吻を交えても、蛍はそれ以上を求めようとしなかった。
飢餓が出ていれば躊躇などしなかったはずだ。
血を求めるよりも唾液で賄えるならそれでいいと、蛍なら優先するはず。
それを彼女はしなかった。
「のびあがりや切り裂き魔の戦闘もあった後だ。血は必須かと思っていたが、そうでもなかったらしい。飢餓は出ていないな」
「あ…うん」
唖然としたまま、流されるようにこくりと頷く。
そんな蛍に、そうかと笑って返す。
「また誰かに血を貰ったのか?」
笑顔とは裏腹な躊躇のない問いに、ぴしりと蛍の体が固まった。
(そうだ…静子さんの血を黙って持っていた時も良い顔はしなかったっけ…)
あの時、今後はきちんと報告すると約束した。
今回その報告に至らなかったのは、他人の血液を保有していた訳ではないからだ。
些細なことだと流していたが、杏寿郎の目を止めるには十分だったらしい。
「あ、うん」
「うん?」
「いや…ええと…うん…」
「それはどっちのうんなんだ?」
「え、っとね」
嘘をつく気はない。
そんなことをしても良い方向に転ばないのはわかっているし、杏寿郎は話せば理解してくれる相手だ。