第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「声も、響くし」
「あの愛らしい声を聞かせてくれるのか?」
「っ」
かぁ、と音がつきそうな程に蛍の顔が赤面する。
ぷいと横を向いてしまったが体が逃げ出さないのは十分な進歩か。
「しないよ、こんな所で」
「…ふむ」
「な、何」
「いや」
蛍が本気で嫌がるなら杏寿郎も手を出すつもりはない。
ただそこまでの否定は感じられない。
嫌だというより思いより、羞恥の方が勝っているのだろう。
それよりも疑問を抱いたのは別のものだ。
「なら接吻はいいだろうか」
「せっ…それ、は…」
「いけないか?」
「いけなくは…ないけど…」
ぽそぽそと声を尻窄みさせる蛍は言い淀んでいるが、はっきりとした否定はしない。
杏寿郎と触れ合うのは好きだ。
接吻も特に好んでいる行為の一つで、許されるなら甘く酔いしれていたいと思う。
ただ此処は外に設置された風呂場。
隊士達が使うであろう藤家の風呂を覗くなどという暴挙を犯す者が凡そこの屋敷にいるとは思えないが、初体験である蛍にその余裕はなかった。
いつもならそんな姿も愛らしいなぁと顔も心も綻ばせながら、優しく、甘く責めていく。
杏寿郎のその決め手を欠けさせたのは、先程から感じていた違和感だ。
「…蛍」
滑らかな肌にそっと触れる。
のびあがりや切り裂き魔との戦闘時に負った怪我は、既に一つもない。
跡形もなく完治した身体は綺麗なままだ。
だからこそ違和感は宿る。
「先程君に食べさせてもらった饅頭は大層美味かった」
「え?…あ、うん。そうなの」
「この町にある蕎麦屋も大層気に入った。かき揚げも美味い」
「そっか」
急な杏寿郎の食への告白に、頸を傾げつつ蛍も頷く。
「目玉親父殿達と別れた茶店でも、食べた団子串は美味かった」
「そういえば食べてたね」
切り裂き魔との攻防後、まともな料理は口にしていないが合間合間で間食はしていた。
なんだかんだ胃袋を満たしていた杏寿郎だから、現時点でそこまでの食欲を見せていないのか。