第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「も、もう十分見えてるし…」
「そうだな。貝殻のような愛らしいこの耳も」
「っ」
「華奢な肩も、たおやかさを潜めた体の線も見える」
赤い小さな耳の縁に口付けを一つ。
緊張感を残す初々しい白い肩に頬を寄せて。
指の腹でなぞるように腰の曲線美を撫でる。
ぴくりと微かな反応を示す様も愛おしくて。
「だからもっと見たくなる」
穏やかに乞えば、ぴちゃんと湯船に跳ねる雫が沈黙を宿す。
「蛍」
何度紡いだって飽きはしない。
愛しいその名を呼べば、導かれるようにゆっくりと赤みを帯びた顔が振り返った。
「…杏寿郎はずるい」
恨めしそうに見つめる緋色の瞳はしとりと濡れていて、縦に割れた瞳孔に気圧されることもない。
ようやく真正面から重なる視線に、杏寿郎は満足そうにふやりと笑った。
「ああ。君の赤裸々な姿をひと目だって見たいと我慢ならない、俺は辛抱の足りない男だ」
情けないと呟きながら、その顔は嬉しそうに綻び笑う。
「…それがずるいんだって…」
嗚呼、と熱い溜息が零れそうになる。
到底抗えないと尚も潤む蛍の視界に、己しか映らなくなるように。
距離を縮めて、唇を柔く重ね合わせた。
「…ん」
ぴちゃ、と落ちる雫は湯船の波か。唇の逢瀬か。
反転させた蛍の体を柔く抱いて、啄むように幾つもの小さな口付けを交わしていく。
「…うん。想像していたよりもずっと綺麗だ」
「っ…想像の通りでしょ。私の体は何度も見てるんだから」
「そんなことはない」
明るい真昼の露天風呂。
日陰であっても素肌のきめを細やかに視界に映してくる。
陶器のような肌の上を滑る真珠の雫も。
熱を帯びほんのりと赤み色付いた頸や手も。
柔からな膨らみを持ち、果実のように甘く誘う女性としての身体の部位も。
薄暗い部屋の中で抱く時とはまた違う。
夜の湯船に共に浸かる時ともまた違う。
思いもかけず見つけた、世界の片隅に咲いた花のような。そんな秘めた美しさがあった。