第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「さっきから音がしてるの。水の流れる音」
巡る蛍の視線が窓際の襖で止まる。
「この部屋に来る途中にも見えたけど、もしかして此処…あれがあるのかなって」
あれ、と朧気な名指しをされるも、杏寿郎もすぐにぴんときた。
廊下から離れの造りを見ていたのは杏寿郎も同じだ。
「ああ、そうか。此処にはあれがあるな」
蛍を膝から下ろすと、立ち上がり窓際へと歩み寄る。
陽が差し込まないか確認しながらゆっくりと襖を開ければ、硝子窓の先。開けた敷地に予想通りのものが見えた。
「うむ。立派な露天風呂だ」
「わぁ…っ」
ちょろちょろと浴槽に流れる湯の音を蛍の耳は拾っていたのだろう。
隣に並ぶ蛍もまた、両手を合わせるときらきらと目を輝かせて窓の外を見つめた。
「この部屋の隣についてるってことは、この部屋専用の露天風呂なの?」
「そのようだな。露天風呂付きの個室とは、随分と良い部屋を用意してくれたものだ」
「すごいっそんな凄い部屋があるんだねっ」
「蛍は露天風呂付きの個室は初めてか?」
「うん。露天風呂自体が初めてっ」
無垢な輝く視線を向けられて、驚いたのは杏寿郎だ。
個室の露天風呂となると確かに機会も少なくなるが、杏寿郎自身は一度味わったことがある。
あれはまだ両親が健在で仲睦まじい姿をよく見ていた時だ。
千寿郎が生まれる前に、家族三人で止まった宿に備え付けてあった。
しかし蛍は露天風呂自体が初めてだと言う。
それくらいならば何度も経験したことがある。
師弟関係であった時に蜜璃との鍛錬の帰り道に寄ったこともある程だ。
杏寿郎だけでなく、日本人にとって風呂は身近なもの。
日の本は温泉大国である。
だからこそ驚いた。
「入ったことがないのか?」
「うん」
「では…見たことは」
「あ、それくらいならあるよ。見たというか、聞いたというか…月房屋で働いていた時は、ハイカラな情報とかも沢山流れてきていたし」
「…そうか」
露天風呂がハイカラという概念がそもそも杏寿郎にはない。
それだけ蛍にとっては身近なようで遠い存在だったのだろうか。