第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「あの切り裂き魔は、お弁当の匂いも駄目だったよね」
ふと思い出す。
まるで汚物を見るような目で弁当を睨み付けていた悪鬼のことを。
それは昨夜の切り裂き魔だけではない。
今まで出会った数々の鬼もまた、人間の食糧には嫌悪感を示していた。
『お前、鬼じゃねぇなあ。気色悪い』
弁当の匂いを蛍が称賛すれば、気色悪いと吐き捨てられた。
それが鬼本来の常識であり、蛍の嗅覚が鬼とは異なっていたからだ。
(私みたいな鬼はいないのかな…)
匂いだけでも人間と同じものを感じられれば、そこまで嫌悪感など持たないはず。
となると悪鬼と称される者達は全て等しく、人間本来の嗅覚を失ってしまうのだろうか。
(禰豆子はどうだったんだろう)
幼い鬼の少女が人の食事にどう反応していたか思い返しても、該当する記憶はない。
そもそも禰豆子は異端中の異端だ。
そこに基準を合わせること自体違うのかもしれない。
「もしあの切り裂き魔が私みたいに料理の匂いは大丈夫だったら…あそこまで人の食べ物に拒否反応は示さなかったのかな」
「…蛍」
「ん?…んぅっ」
呼ばれるままに顔を上げる。
目の前の杏寿郎の顔を確かめる前に、唇を柔らかな体温で塞がれた。
「ん、ふ…っ」
くちり、と粘膜が擦れ合う。
肉厚な舌が口内をなぞるように潜り込んできて、丹念に唾液と共に舐め上げては吸い付いてくる。
急な深い接吻に驚きはしたものの、蛍も抗いはしなかった。
丁寧な舌の愛撫に身を任せていれば、体が震え始める前にちゅるりと舌が退いて解放された。
「っは…」
互いの唇を繋ぐ細い銀の糸を、太い親指が優しく拭う。
口内に残っていた餡子の名残りは消えていた。
「君は君だ。例え口にできなくなったとしても、人の作り上げた食事を尊び重んじることができる」
拭う指先が優しく唇を撫で上げ、慈しむように触れるだけの接吻を交わす。
「それは蛍にしかできない凄いことなんだ」