第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「ならあれが食べたい」
「お饅頭?」
「うむ」
机の上に置かれた茶請けの饅頭。
視線で呼びかけ、口を開ける。
まるで雛鳥のようなその仕草に、きょとんと目を向けた蛍が今度は顔を綻ばせた。
「いいよ」
一つ、饅頭を手に取り包みを開ける。
ぷるりと揺れる水饅頭は透き通った乳白色をしており、中の餡子も透けて見える。
杏寿郎の口元に運べば一口でぱくりと食べきり、あむあむと美味しそうに頬張った。
「うん、美味いな」
「よかった」
いつもの豪快に次々と料理を平らげては、うまい!と叫ぶ姿とはかけ離れたもの。
しかしそれもまた杏寿郎の食事の姿の一つだと知っているから、蛍も笑顔を見せた。
蜜璃と並ぶ大食漢だが、杏寿郎の体は決して燃費が悪い訳ではない。
その証拠にその場その場に適応して食事の量も大きく変えることができる。
食べられる時はこれでもかと何十人分もの食事を口にするが、任務により何日も絶食状態でいる時もある。
誰よりも間近で任務の姿勢を見てきた蛍だからよく知っていた。
絶食の度に杏寿郎は常に腹を鳴らすような様を見せることはなかったし、空腹だと弱音を吐くこともなかった。
鬼の頸を斬り落とし、任務を果たした後にはスイッチを切り替えるように見ていた姿だったが。
つまりは自身で体内をコントロールして鬼殺に当たっているのだ。
耐える時はどこまででも耐える。
だからこそたった一つの饅頭でもゆっくりと味わいながら満足げに笑う杏寿郎に、蛍は内心ほっとした。
「後で藤の人にご飯を用意してもらおっか。はい、もう一つ」
「うむ。ん、これも美味い」
「こっちは白あんかな。…あ」
唇の端で零れ落ちそうになる餡子の欠片を指で拾う。
あまりに杏寿郎が美味しそうに頬張るからか。なんとなしにぺろりと舐めてみて、ほどなく蛍の眉間に皺が寄った。
「ぅ…美味しくない…」
「はは。だろうな」
「匂いは美味しそうなんだけどなぁ…」
吐く程までには至らないが、顔を顰めさせるには十分な不味さだ。
匂いはほんのりと甘さが香るというのに、喉奥に迎え入れようとした途端に泥臭い味に変わる。
とても食べられたものじゃないと舌を出せば、杏寿郎に笑われた。