第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「じゃあまず杏寿郎は睡眠ね。お布団敷いてあげる」
「む?」
「あ、先にご飯がいいかな。お腹減ってるでしょ?」
「ああ、いや」
「お風呂もいいね。藤のおうちって個々でお風呂が全く違うから見るの楽し…待って何あれっ?」
せかせかと隣の寝室を覗いたかと思えば、ぱんと両手を打ち笑顔を向ける。
かと思いきや窓の外から届く水音に興味を示す。
そんな小動物のような蛍の動きを目で追いながら、伸ばしかけた手を止めて。
「く、ふふっ」
杏寿郎は破顔すると、座布団の上に胡坐を掻いて座り込んだ。
「な、何。笑って」
「どれも今はいいから。おいで」
伸ばした手を裏返して、掌を差し出す。
両腕を広げて杏寿郎が求めるものがなんなのか、聞かずとも蛍にも理解できた。
手持ち無沙汰に指先を握ると、おずおずとその身を杏寿郎の傍へ寄せる。
差し出された掌に手を乗せれば、やんわりと握られる。
そのまま迎え入れられるように胡坐の上に座らされた。
「はぁ」
細い腰に腕を回して抱くと、焔色の柔らかい髪が蛍の肩に重みを預けてくる。
緩やかな息をつきながら、ほっと一息つく杏寿郎の頬が柔らかく緩んだ。
「やはり疲れた時には君が一番だな。落ち着く」
「…疲れた?」
「然程でもないが。蛍を補充したいくらいには」
目を瞑り応答していれば、頭にそっとあたたかい体温が触れた。
よしよしと無言で撫でてくる掌は繊細な手つきで、小さく柔い。
そんな些細な仕草にも心は満ちて、疲労など溶かしていってしまう。
「このまま寝る?」
「うーむ…」
「お腹は空かない? 大丈夫?」
「うむ…」
睡眠欲も空腹もないことはないが、それよりも目の前の存在を抱きしめて微睡んでいたい。
気遣う蛍に甘えるように瞼を上げると、杏寿郎は視界の端に捉えたそれを呼びかけた。