第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「それでは、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ」
「うむ!」
深々と頭を下げて去っていく女性を見送る。
静かに閉められた襖の向こうの気配が遠ざかれば、途端に人気はなくなった。
離れである、と言われた通りにどうやら此処は隔絶された部屋のようだ。
(柱であることを気遣われたか。優しい者達だな)
鬼殺隊には所縁のある藤の家。
其処は無限列車の情報を耳にした町の高台にあった。
故に緑も多く、自然と組み合わさるような屋敷の形をしている。
ふ、と静かに息をついて肩の力を抜く。
杏寿郎にとっても屋敷周りは心地良い静寂だった。
「ふぅーっ」
その静寂を遮ったのは、はふりと息をつく声。
部屋の敷居を跨いだのは杏寿郎だけではない。
継子である蛍もまた、深めに被っていた笠を取ると口布も下げて深呼吸をしていた。
窓の外はまだ明るい。
人が活気づく時間帯だ。
「疲れたか? 蛍」
「ううん、大丈夫。ゆっくりできる時間も貰えたし」
「昨夜の出来事が仇になってしまったな」
「仕方ないよ。切り裂き魔は倒せたんだし…一日延びるくらい」
いそいそと笠や布手袋を脱いでいく蛍に習い、杏寿郎もベルトに挟んでいた日輪刀を抜くと用意されていた刀掛けに立てかけた。
常に肩で揺れる羽織も脱げば、自然と杏寿郎の口からも息が零れ落ちる。
本来なら本日は無限列車が再出発する日だった。
しかし整備士達を切り裂き魔が襲ったことと、その切り裂き魔との戦闘時に線路の枕木を破壊されたことが延長の決め手となった。
特に線路が壊されていては他の列車も思うようには走らせられない。
修理を最優先に厳重な整備の見直しの末、無限列車の出発は翌日に見送られたのだ。
「杏寿郎こそお疲れ様。今日はゆっくり休んで明日に備えよう」
「うむ、そうだな。お陰で町の人々が皆無事であったこともこの目で確認できた。何より嬉しいことだ」
にっこりと笑う杏寿郎のらしい回答に、蛍の頬も緩む。
常に守るべき人々のことを考えて行動している杏寿郎だからこそ、休める時はめいいっぱい心身共に休んで欲しいと思うのだ。