第31章 煉獄とゐふ者
「本来ならその傷も負わなくて済んだものだ」
「…これくらい」
「なんだ? これくらい、なんだ。言ってみろ」
「……」
その傷と言われて縁壱が目を向けたのは、親指に微かに入った赤い線。
それは鬼によって傷付けられた訳ではない。
周りは林。激しい戦闘の中で鋭い木の枝に引っ掻けて皮膚を裂いてしまっただけだ。
そう告げようとすれば、更なる圧が襲いかかった。
ここで何か反論の一つでもすれば取って喰われそうな雰囲気だ。
「……悪かった」
煉獄という男は梃子でも動かない確固たる強い意志を持っている。
それを知っていたからこそ、静かに視線を下げて縁壱が謝罪すれば更に溜息で返された。
しかしそこにもうぎらつくような視線はない。
「僅かな傷だって菌が入れば取り返しがつかないことにもなる。相手が鬼ならそこに術をかけられることだってな。そうさせない為に俺がいるんだ」
「すまない」
「…俺の背中は頼りないか?」
「そんなことはない。頼りにしている」
体が反り返る程に強く掴まれていた胸倉の手が離れる。
その拳は労うように縁壱の胸をぽすりと叩き、下げる肩と共に太い眉尻も優しげに下がる。
「俺もだ。この場の者達を救ったのは縁壱だ、礼を言う」
先程とはまるで別人のような柔い表情(かお)。
何故煉獄が礼を言う。という問いは呑み込んで、縁壱もまた言葉無く頷いた。
煉獄のこの表情は見ていると不思議と心が穏やかに感じられる。だから好きだ。
「…あの、お侍様方」
「ん?」
「危ないところを助けて頂きありがとうございました」
「ああ、いや。貴女方もお怪我はないか」
「はい。お陰様で」
「ならばよかった」
里帰りの最中か。荷物を背負う母と息子の親子二人。
深々と頭を下げる母に寄り添う息子はまだ十歳程と幼い。
林道を鬼に襲われていたが、いち早く見つけ出した縁壱のお陰で二人の命は失われずに済んだ。
「しかし夜道の旅路は危険を伴う。近くの村まで案内するので、今宵は休んで翌朝発つといい」
「いいえ、そこまでお侍様のお手を煩わせるようなことは…っ」
「煩わせてなどいるものか。寧ろ我らの本場は夜。丁度近くの村まで足を伸ばしていたところだ。なぁ縁壱」
「…ああ」