第31章 煉獄とゐふ者
「──どうぞ」
促すような優しい声。
しかし耳に心地良い低い声ではなかったような気がする。
そんな些細な疑問はふくの中では重要ではなく、呼ばれるままに振り返った。
白んだ空が徐々に明るさを取り戻していく。
仄かな駅内の明かりも相俟って、目の前に立つ姿は容易に確認できた。
(え?)
確認はできた。
しかしすぐには把握できなかった。
理由はよくわからない。
ただ奇妙な違和感が残る。
「私の名前は、彩千代蛍といいます」
目線が下がる。
もっと背の高い位置に視線はなかっただろうか。
ツナギ服の袖や裾が余り、ぶかぶかの服を着ているようだ。
もっと逞しい腕や手をしていなかっただろうか。
どことなく柔らかな線。
どことなく柔らかな声。
どことなく柔らかな空気。
何よりはらりと顔周りを覆う髪は、明確に違いを見せつけた。
彼は杏寿郎のように長い髪はしていない。
巽のような一般的な男性の短髪だったはずだ。
「あの…人、は…?」
この人は自分が知りたかった名前の彼ではない。
そう自然と頸を横に振るのに、何故か目が逸らせなかった。
男ではない。
この人は女性だ。
なのに何故彼と同じ格好をしているのだろう。
「すみません。騙すようなことをしてしまって」
困ったように眉尻を下げて、蛍と名乗った女性が苦く笑う。
「男の姿の方が何かと融通が利くことも多くて、仕事中はその姿をしていたんです」
「え…じ、じゃあ」
「はい。ふくさんを勝手に攫って線路まで走ったのは私です」
「嘘…っ? そんな…っ確かに男の人で…!」
「ええ、と。それはあれです。芸事の一種のようなもので」
先程まで焦がれていた男性の姿に確かに似ている。
言い淀みながら説明する口調は、数分前に話した彼と酷似していた。
しかしどこをどう見ても女性だ。
空気だけではない。
声も、身長でさえも変わっている。
そんなことが可能なのだろうか。
泡てふためき指差すふくに、蛍はぽりぽりと額を指先で掻きながらまた一つ苦笑した。
「…っ」
その姿まで彼そっくりなのだ。