第31章 煉獄とゐふ者
「いやっあ、あの…あたしは」
「君の名前は!?」
「あ、ふくって言いま…じゃなくて!」
力強い杏寿郎の手を振り払う。
つい勢いに流されそうになったが、知りたい名前は別にある。
「あたしが知りたいのはっ彩千代さんの名前なんです!」
顔を赤く染めながらもはっきりと言い切るふくに、ぴしゃん!と雷が落ちたかのように杏寿郎の体が固まる。
相手が男ならばこの話は終いだと早々に切ることができた。
しかし目の前にいるのはいたいけな少女だ。
真っ向から否定することはできず、だからと言ってこのまま少女のアプローチを黙って見守ることも至難の業。
笑顔のまま固まる杏寿郎に、赤い顔で踏ん張るふく。
「ぶふッ」
その緊張感のあるようなないような空気を止めたのは、急な蛍の吹き出しだった。
「ん、ふふ…っあははッ」
「彩千代、さん…?」
「ごめ…笑って、」
剣士でもましてや大人でもない。力無き少女に言葉を詰まらせている杏寿郎が珍しくて、可笑しくて。
お腹を押さえて笑いながら、蛍は頸を横に振った。
「わかりました。名前、お教えします。その代わり後ろを向いて貰えますか?」
「後ろ…ですか?」
「はい。良いって言うまで振り向いたら駄目ですよ」
人差し指を立てて笑顔で告げる蛍に、そんな些細なことで早鐘に変わる胸の鼓動を押さえて、ふくは素直に背中を向けた。
他人に好意を向けられるのは決して悪いことではない。
月房屋で柚霧として働いていた時はその好意を稼ぎの手段として使っていたが、鬼となってからはがらりと変わった。
一人のいたいけな人間に好かれることが、どんなに大変なことか。
その心に認められることが、どんなに救われる気持ちになるのか。
思い出したのは京都で出会った藤の家の少年だ。
ゆっくりとその場から腰を上げる。
既に手も足も目も全て完治した。
顔にまだこびり付いているであろう目元の血を袖でごしりと拭うと、ばつが悪そうな杏寿郎を見て蛍は目尻を緩めた。
無垢な少女に好意を持たれるのは純粋に嬉しい。
しかし愛おしいひとのきまりの悪い顔が見たい訳ではないのだ。