第29章 あたら夜《弐》
「…行って参ります、父上」
再び出立を告げる。
誰にも聞こえない、風の囁きのような声で。
それでも杏寿郎は清々しい表情を浮かべていた。
姿は見えないが、確かに其処に在る父の心を見つけられたのだから。
「…杏寿郎?」
「ん? ああ」
頸を傾げて呼ぶ蛍に颯爽と振り返る。
名残惜しくはない。
何年も忘れていた、父と繋がりのある心は胸(ここ)にある。
指先から伝わる体温が呼ぶように軽く引く。
その愛おしい仕草で見つめてくる彼女も、しかと視ていたい。
「さあ、姉君の話を聞かせてくれ。十五の蛍は一体どんな娘だったのか知りたい」
「私? 私は…そうだなぁ…その時の趣味はお手玉集めだったかな」
「お手玉! 懐かしいな!」
「ちりめん柄がとっても可愛くてね。遊ぶ方じゃなくて、お手玉を集めて見る方が好きで。おはじきとかも」
「おはじき! 愛らしいな!」
「色とりどりで綺麗だよね。趣味が子供っぽいって言われたこともあったけど」
「人の好みはそれぞれだろう。俺も力士を描いた相撲絵を一時期集めていたことがあったぞ」
「お相撲さんの? そっか、好きだって言ってたもんね。いつか相撲観戦も一緒に行ってみたいなぁ」
「いいのかっ?」
「いいよ、勿論。歌舞伎の時もそうだけど、遠慮なんてしなくていいから。私は杏寿郎が好きなものを一緒に楽しみたい」
そわそわと胸の内を騒がせる子供のような喜び様に、蛍の口元が綻ぶ。
「ならば俺もそうだ。蛍が好きなこと、大切にしているもの、なんだって知りたいし聞かせてほしい」
「好きなことかぁ…それなら色々あるよ。千くんと一緒に作るご飯の時間とか」
「確かにいつも楽しそうだ。俺も偶には混ぜて欲しいのだが…」
「あはは、そうだね。杏寿郎が味見と称してあれこれつまみ食いしないなら」
「ぅ…む。善処しようっ」
「杏寿郎と一緒にお布団の中で目を覚ます瞬間も好き」
「あれか…俺もあれは大層好きな時間だ。強いて言うなら言葉を交わす前の、蛍の温もりを抱いて微睡んでいる時間が一等幸せに感じられる」
「あ、それわかる。杏寿郎の鼓動の音を聴きながら微睡む時間、私も好きだなぁ」