第29章 あたら夜《弐》
「それは…っ…ぅむ…」
口元を押さえたまま、戸惑うように杏寿郎が顔を逸らす。
掌の下の唇は、力を入れていないと震えて緩んでしまいそうな気がした。
そんな杏寿郎の姿を後追いすることなく、蛍は優しい顔で静かに笑っていた。
(話して、よかったかもしれない)
元々は話す気などなかった。
責任感の強い杏寿郎のこと、自分の所為で父に手を出されたのだと自責の念にかられてしまうかもしれないと思っていたからだ。
しかし彼が見せてくれたのは思いもかけない反応だった。
父への思いがそれだけ強いのだろう。
槇寿郎こそが大きな愛を持つ人だと言ったが、やはりそれは杏寿郎にも当てはまるものだと蛍は実感していた。
〝家族〟という言葉が、ここまで暖かく染み入る人を知らない。
広い屋敷に人の気配は一握り。
そんな寂しい所に千寿郎を父と二人きりで残すのは忍びないと苦笑していた杏寿郎だったが、決してそんな寂しいものではないと思えた。
深い喪失に堕ちる父の心も。
才能の有無に振り回され必死に噛り付こうとする次男も。
そしてそんな二人の間で懸命に煉獄家の柱で在ろうとする嫡男の彼も。
歪で、愛のある複雑な結び付きは、他ならない人間だからこそ。
(家族なんだ)
何処にも代わりはない。彼らにしか結び付けられない繋がりが確かに、あの家にはある。
「……」
沈黙は決して悪くない。
顔を背ける杏寿郎にふつふつと柔く浮き立つ愛おしさを感じて、下がった手元を緩く握る。
再びこちらへ向いた瞳は先程のような幼さを薄れさせていたが、煌めきは健在だった。
「行こっか」
やんわりと指先を握り誘う。
杏寿郎が久方ぶりに見つけた感情を、優しく優しく包み込むように。短く声をかけて笑う蛍に、煌めく金輪がぱちりと瞬き──緩んだ。
「…ああ」
口元を覆っていた掌がゆっくりと退く。
見えたのは、感情の色を乗せ柔く弧を描く唇。