第29章 あたら夜《弐》
「…父上、が…」
鋭かった双眸が強さを失くす。
呆けたように開く口を片手で押さえて、杏寿郎は息を飲み込んだ。
そうでもしないと堰を切ったように感情が溢れそうな気がして。
父のことを見下げたことは一度もない。
今でも杏寿郎にとって尊敬すべき、誇り高い人だった。
例え剣士を辞めたとしても。
例え名を呼んでくれなくなったとしても。
それでも背を向け目すら合わせなくなった父の背中ばかり見ていた心は、じわじわと小さなシミを広げていった。
取るに足らない小さなシミだと気にしなかった。
それ以上の父への変わらぬ思いが自分にはあるのだからと。
そのシミがいつの間にか大きく体を染め上げていたことに、今気付いてしまった。
あの父が、自分や千寿郎のことで怒りを露わにすることなどないと思っていた、あの父が。
「…っ」
目の当たりにした事実に胸は震え、視線が揺れる。
もう二度と貰えることはなくても、己の思いは枯渇しないと思っていた。
なのに蛍から聞かされた父の感情に、乾いた砂地の心が一瞬満ちたような気がしたのだ。
唖然と沈黙を作る杏寿郎の顔を下から覗き込み、蛍がふと口元を綻ばせる。
「ね。槇寿郎さんはちゃんと視てる人だよ」
頸を傾げて笑いかければ、杏寿郎は覆っていた手の下でぐっと唇を噛み締めた。
「ふふ。杏寿郎のその顔、初めて見たかも」
「…?」
「此処に来て、柱や剣士の顔だけじゃない、お兄さんの顔や家族に向ける顔は沢山見たけど。そういう顔は見なかったかな」
沈黙を続ける杏寿郎の視線の問いに、蛍はくすりと笑みを零す。
膝を貸して寝入る瞬間に見た、幼い無防備な顔とはまた違う。
それでもそれは幼い少年の顔だった。
「槇寿郎さんの息子だっていう顔」
へなりと力を失くした眉尻。
揺れる瞳は僅かに濡れて、金輪をきらきらと輝かせている。
僅かに上気した頬も。
言葉にならない唇に押し付ける手も。
──嬉しい
そんな声が聴こえてきそうな、幼い少年の顔だ。