第29章 あたら夜《弐》
「父上自身にも告げていたことだ。俺に拳を向けるなら幾らだって受けよう。しかし蛍にその拳を向けるなら俺は受け入れられないと」
「…っ(私、だって)」
胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
痛みではない。言いようのない嬉しさと、そこに連なる切なさで。
自分だってそうだ。
杏寿郎が手を上げられる姿を見て平気でいられるはずがない。
相手は他人ではないのだ。
慕う実の父親から受ける拳がどんなに重いものか、経験はなくても痛みは理解できた。
それほど身体だけでなく心も打ち付けられているはずのものだ。
しかしそれを語ったところで結局は押し問答。
自分だってそうだと杏寿郎に返されて、ふり出しに戻るだろう。
「私だって」と告げようとした唇を、きゅっと結ぶ。
「っ…杏寿郎の血を貰ってるって、言ったの」
槇寿郎を神幸祭に連れ出す為の口実だった。
しかし事実でもある。
「千くんの体液だって貰ったことがあるって」
意を決したように告げる蛍に、淡々と言葉を乗せていた杏寿郎が止まる。
「槇寿郎さんを神幸祭に参加させる為に言ったけど、でも本当のことだから。…だから、槇寿郎さんに怒られたの」
「……」
「槇寿郎さんに向けた言葉にじゃないよ。槇寿郎さんが怒りを抑えられなくなったのは」
開いた金輪の双眸が、尚も見開く。
そこに映るは愛しい女性でありながら、脳裏を過ったのは荒れた父の姿。
「杏寿郎と千くんのことに対して、怒ったんだよ」
その姿が一瞬、嘗ての父の姿と重なった。
凛々しく、熱く、優しかったあの。
『杏寿郎』
見上げる程に幼かった頃、幾度となくその声で呼ばれた。
強く、温かい声で。
頭に乗せられた大きな掌は、いつもくしゃりと掻き撫でるように触れてくれた。
儚い昔の記憶。
それでも確かに其処に存在していた、父の記憶だ。