第29章 あたら夜《弐》
蛍も褒め称えていた頭の回転の速さはそのままに、敢えて触れることなく杏寿郎は口を閉じた。
代わりに顔が緩んでしまうのは仕方ないと、優しく蛍の頭を撫でる。
「杏寿郎?」
「いや、愛いなと」
「誰が?」
「蛍が」
「…いつもは笑い耐えるのに?」
「人を小馬鹿にするような男だというような言い草だな」
「そうは言ってないけど…でも…ん、」
くすぐったそうに片目を瞑り、華奢な肩を竦める。
「その愛い、は笑われるより好きかも」
撫でてくる掌に軽く押し付けるように頭を傾ける。
そんな蛍の仕草に、ほわほわと胸のうちが温かく染みていくのを杏寿郎は感じた。
蛍特有の小動物のような甘え方だ。
「でも槇寿郎さんも、悪気があって手をあげた訳じゃないよ」
甘える子猫のような仕草で、しかしその口から零れ落ちた言葉にぴたりと杏寿郎の手が止まった。
「仕方ない理由があったから」
「…そればかりは君の言葉であっても鵜呑みにはできないな」
「え?」
「理由がなんであれ大切なひとに手をあげられて良い気はしない。そもそも…柚霧が生きてきた道を思えば尚の事許し難い」
静かに発せられた柚霧という名に、今度は蛍が動きを止める番だった。
「だから父上に話した。知り得てしまったことを見て見ぬふりはできなかったからな」
「でもあれは仕方なく…」
「仕方なく、なんだ? 君が手をあげられなければならない理由がどこかにあったのか? 父上に牙を向けたのか」
「それは違う、けど」
「人に牙を剥いていない蛍に、それ以外で拳を向ける理由がどこにある。父上を貶した訳でもないだろう」
「それは…そうだけど」
先程の柔い空気が薄れていく。
感情の起伏は見られずとも、淡々と静かな声で続ける杏寿郎からは滲み出るような圧があった。
蛍には向けられていないが、譲らない圧だ。
普段は温厚で闊達な声を爽やかに上げることが常だからこそ、そんな杏寿郎が静かに怒りを滲ませる時が一番危ういことを蛍は知っていた。
まるで嵐の前の静けさの如く。