第29章 あたら夜《弐》
「でも実際、少し聞こえちゃってたから…わかってはいたんだけど」
言い難そうにぽそぽそと告げる蛍が言う「聞こえた」というのがなんなのか、杏寿郎もすぐさま理解できた。
秋蛍を鑑賞した孤島でのことだ。
槇寿郎と交わした言葉は声こそ荒げなかったが、譲れない思いだった。
「…だから苦手な幼虫をわざわざ捕まえてまで声をかけてくれたのだろう?」
これ以上は誤魔化せない。
そう踏んだからこそ杏寿郎も歯切れの悪い相槌を飲み込んだ。
「やっぱり杏寿郎には見破られてたかぁ…」
「俺も確信はしていなかった。ただ蛍が声をかけてくれた頃合いがな。それ以上俺と父上に話をさせたくないように見受けられた気もして」
「させたくなかった訳じゃないよ。槇寿郎さんと目を合わせてお話できていることは凄く良いことだと思ったし。…ただ…」
「ただ?」
秋蛍に夢中になっていたはずの千寿郎が、ほんの少しだけ不安な瞳で父と兄を遠目にこっそりと見ていた。
そんな千寿郎の姿を傍で見続けていたくなかったこともある。
(なんて言うと、千くんを言い訳にしているみたいだし)
蛍自身も少なからず気になっていたのは確かだ。
二人には二人の思いや言葉が必要だろうと止める気はなく傍観に徹していたが、千寿郎自身が目だけでなく足も向けてしまえば話は別だ。
あの二人の空気に割って入れば、槇寿郎は良い気はしないだろう。
そんな目で見られるのは自分の方がいいと、意を決して秋蛍の幼虫に手を伸ばした。
「気にしないようにはしてたんだけど、そうすればする程やっぱり気になっちゃって。でも二人に折角の秋蛍を堪能もして欲しかったの。それは本当だよ」
頸を横に振り、なんでもないことのように告げる。
ばつが悪そうにはにかむ蛍のころころと感情を変える笑顔を見つめて、杏寿郎はふっと頬を緩めた。
「そうか」
それは本当だと語った笑顔の下にある、蛍なりの気遣いを見通して。
はにかむ蛍の庇い立つ背後には、彼女が大切にして止まない弟の姿がある。