第29章 あたら夜《弐》
静まり返る空気に、結果は読めていたのか杏寿郎の顔に陰りは生まれない。
深々と一礼すると、颯爽と踵を返した。
「もういいの?」
「うむ! 父上には前以て挨拶を済ませてある。これは景気付けのようなものだ」
「元気出た?」
「ああ。すっきりはしたな」
頸を傾げて問いかける蛍に笑って、今度こそその足は迷うことなく長屋門を出る。
「久々に長居をしたな。千寿郎、家のことだけでなく父のこと、俺のこと、延いては蛍のことも。沢山世話になった」
「そんな。俺の方こそ、改めて煉獄家の次男として身が引き締まりました。充実した時間をありがとうございます」
切り出す別れの言葉を耳にして、最後に長屋門を潜った蛍が名残惜しそうに足を止める。
「本当あっという間だったなぁ…千くんに教わりたい料理まだまだ沢山あったのに」
「それを言うなら僕だって。姉上の手料理、もっと味わいたかったです」
「本当?」
「うむ! あのだご汁にさつまいもを合わせる発想はなんとも素晴らしいものだったな。また食べたい!」
「そう? 割と何処にでもある料理だと思うけど。この土地には馴染みなかったのかな」
「俺は初めて食べたな!」
「僕もです。姉上、また作ってくださいね」
「…ん」
「?」
「千くんがぎゅってしてくれたら、また作る」
楽しかった日々を振り返るだけで胸はなんだか切なくなる。
隙間風が吹くような胸の内が淋しくて、両手を広げて少年の温もりを求めた。
きょとんと瞬いた幼い金輪が、ふっと和らぐ。
「そんな理由なんかなくたって、姉上ならいつでも歓迎ですよ」
ぽふんと飛び込むようにして触れる体。
背中に回った幼い両手が、ぎゅっと強く蛍を抱きしめた。
「姉上。兄上のことをよろしくお願いします」
「うん。任されました」
「姉上のこともよろしくお願いします」
「私?」
「はい。姉上は時々自分のことに無頓着ですから。もっと魅力的なものを持った女性だということを自覚しておいてくださいと、姉上自身に伝えてくださいね」
「…千くん」
「わっ…く、ふふっ姉上くすぐったいです…っ」
「千くん~っ」
ぎゅうぎゅうと甘い束縛を強めながら、幼い体を抱き締める。