第29章 あたら夜《弐》
「杏寿郎っ千くんっ」
「姉上、父上は…」
「うん。見ているから遊んで来なさいって」
「よもや、それは真か?」
「うん。まだ遊び足りないようだから満喫しておいでって」
「「父上が?」」
思わず二人の疑問符が重なる。
そこまでは言ってないと反論したかったが、満面の笑顔と戸惑うような顔がこちらを向いて槇寿郎も押し黙ってしまった。
感情は相反していても、兄と弟。どちらの瞳も同じに輝いていたからだ。
「父上が…」
「うむ! 父上、ありがとうござムグッ」
「待って待って。大声出したらまた槇寿郎さんに怒られるよ」
勢いのままに張った声で杏寿郎が礼を告げようとすれば、先が読めていたかのように蛍に口を塞がれた。
「それにほら、秋蛍も驚いちゃうから」
「…む…」
「兄上、姉上」
「うん?」
「なぁに千くん」
「見てください、ここ」
杏寿郎とは程遠い、明るくも優しい声で千寿郎が二人を呼ぶ。
年相応な無邪気な顔で手招き指差す先は、湖の浅瀬だ。
「水の中にも秋蛍の姿が見えますよ。ほら」
「わ…本当だ」
千寿郎の指先を視線で辿れば、透き通った湖の底にぽつぽつと淡い蛍色を見つけられた。
陸地で見るものとは違い、ゆらゆらと水面に揺れる淡い光はより一層幻想的なものに見える。
「綺麗…でも水中でも平気なのかな?」
「本来、蛍の幼虫は水中で過ごすと聞くからな」
「そうなの?」
「うむ。しかし見たところ、この秋蛍は陸地にも足を向けるようだ。だから成体でなくとも光を放つ姿をこうして拝むことができたのではないか?」
「そっか…普通は蛍の幼虫って中々見かけませんもんね」
「成程。杏寿郎、蛍に詳しいんだね」
「いや、俺も恐らくと言ったところだ。昆虫には然程詳しくないからな…」
「でも赤とんぼのこと知ってたよ」
「まぁ。蜻蛉なら昔よく捕まえていた虫だ」
「あ。言われれば、そんな記憶も」
「千くんも? へえ…っその話詳しく聞きたいな」
「僕の話ですか?」
「勿論。千くんの話」
水面を覗き込みながら、自然と屈んだ腰は地に着く。
体操座りで聞く姿勢を取る蛍の左右に、明るい焔色の頭が並び座った。