第29章 あたら夜《弐》
「……だったら俺なんかに構わず、その"しあわせ"とやらを堪能したらどうだ」
「え?」
長い沈黙の後、顔を背けた槇寿郎がぼそりと告げたこと。
「後ろの二人はまだ遊び足りないようだぞ」
その言葉に呆気に取られていると、促すように鋭い双眸が蛍の背後へと向く。
振り返れば、其処にはそっくりな焔色の頭が二つ。
遊び足りないというよりも、蛍を案じるようにこちらを見ている。
その金輪の眼が蛍の緋色の瞳と重なり、同じにぱちりと瞬いた。
「相手をしてやれ」
「…ぇ…」
素っ気ない言い方だったが、確かに促す言葉だった。
蛍が鬼と知られてから、今まで一度も二人の傍にいることに良い顔をされたことはない。
ましてや共に時間を過ごすことを肯定されるなど。
「し…槇寿郎、さん」
思わず耳を疑ってしまう。
本当に自分に投げかけられたものなのか今一度確かめたくて、堪らず一歩蛍は踏み出した。
願わくば、そのひと時を槇寿郎も共にいてくれるなら。
「さっさと行け。俺の気が変わらないうちに」
しかし今度こそそっぽを向いた顔はこちらへと向けられない。
これ以上しつこく縋ったら、神幸祭を誘った時のように怒りをくらうかもしれない。
ぐっと拳を握り、蛍は踏み止まった。
「では、あの。もう少し杏寿郎さんと千寿郎くんとこの時間を楽しみたいので…見守っていて下さい」
一度俯いた顔を上げて、今できる精一杯の笑顔で呼びかける。
年に一度の希少な秋蛍。
まだまだ堪能し足りないのは本音だ。
この一瞬一瞬を、大切な彼らともっと共に過ごしていたい。
共に感情を分け与えることはできなくても、その時間を槇寿郎にも共有してもらえたら。
「見ていて、下さいねっ」
ちりんと跳ねる鈴の音のように。弾む蛍の声が遠のく。
不思議と後ろ髪を引かれた槇寿郎が視界の隅で追えば、杏寿郎と千寿郎に小走りで駆け寄る背中が見えた。